いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

友達に「面白いと言って貸したギャグ漫画が無表情で読まれる」ことがなぜ恐怖なのか?

部屋に来た友達に、面白いと言って貸したギャグ漫画が無表情で読まれている恐怖
http://blog.livedoor.jp/himasoku123/archives/51469664.html


少し前のまとめサイト記事。
はてブはあまり集めていないけれど、わかる人にはわかるという内容ではないだろうか。
僕自身、貸した漫画が相手の期待にそぐわなかったということはあるが、幸いギャグ漫画でのそんな経験はない。
だけどこの「恐怖」は直感的にわかる。
要は「あるあるネタ」なんだけれど、これのキモとなっているのは「貸した」のが「ギャグ漫画」であるということ。
実際、貸された方も無表情ながら面白いと思っているかもしれないが、ここでは重要ではない。
問題はなぜ「ギャグ漫画を無表情で読まれ」てそれを否定されたのだと思い込んだら、われわれは「恐怖」を覚えるのか、だからだ。
なぜギャグ漫画にかぎってそうなるのだろう。



まず、好きなギャグ漫画というのはほかのジャンルの「好きな漫画」とは、一線を化しているような気がする。
「ような気がする」では根拠薄弱だから、もう少し考えてみよう。



笑いというのは、常に対象(ネタ)を必要としている。
自虐ネタでさえ、それは自分をネタにした笑いの形だ。
そしてどんなギャグ漫画にも、「芸風」がある。
「このギャグ漫画」と「あのギャグ漫画」はどちらも面白いけれど、その「芸風がちがう」というのはなんとなくわかる。
「芸風」というのは、「世界(対象)のなにを面白いと考えるか」の基準にほかならない。
そしてこの「世界(対象)のなにを面白いと考えるか」というのは、「世界(対象)のなにをまともだと考えているか」とネガとポジの関係にあり、いって見ればギャグ漫画の「芸風」とは「批評性」の言い換えだ。
秀逸なギャグ漫画の多くは、それ固有の批評性を持っているわけだ。
この点で、ギャグ漫画はほかのジャンル漫画と一線を化している。
他のジャンルでは通常、重要視されるのは作画であったり、ストーリーであり、「批評性」はそこまで問題にならないのだから。



そして、あなたの「好きなギャグ漫画」というのは実はあなたの好みの批評性の選好だともいえる。
どのようなギャグ漫画を好むかに、あなたがどのようにこの世界を批評しているか、その批評性が表れるのだ。
わかりやすく言えば、それはあなたの「こういう見方で世界を見る(のもアリと考えている)」ということの表明なのだ。



そんなあなたの面白いと思った、つまりその批評性に賛意を示したギャグ漫画を、友人から否定されたとき。
それはあなたの世界に対しての批評性そのものを否定されたに等しい。
だからこそ、自分がおもしろいと思った冒険漫画を、ホラー漫画を、ラブコメを否定されること以上に、面白いと思ったギャグ漫画を否定されることは、なににもまして「恐怖」なんじゃないだろうか。



いや、これはまだ少しうまく説明できてないな。
じゃあなんでそれが「恐怖」なんだろう。



おそらく、その恐怖の根源には、根拠のない自明性が張り付いている。
もっと簡潔にいうと、(笑)そのものは「笑えない」ということだ。



世の中には、いろんな(笑)がある。
スイーツ(笑)」を例にとってみる。
あなたが「スイーツ(笑)」という言葉を使うとき、「スイーツ」として類型化されている人や物が対象であり、(笑)というのはそれに対してのあなたによる「批評」だ。
つまりスイーツ(笑)とはスイーツ/(笑)に分割でき、一般的にすればそれは「対象/それを笑っているあなた」になる。



では、そんな「スイーツをバカにしているあなた」は(笑)われないのだろうか。
言い換えれば、「スイーツ(笑)(笑)」はできないのか。
少なくとも僕自身、リアルとネットを問わずこんな表記の仕方は見たことがない。
それは端的に表記として「わかりにくい」からだろうか。
ことにネットではやるかどうかは、表記としてのわかりやすいかどうかが重要だ。
しかし、わかりにくいだけが理由だろうか。



わかりにくいという理由以上に、そんな表記がないということの背景には、単純に「そんなことは考えもしなかった」と考えた方が適切ではないだろうか。
つまり、対象を「笑うあなた」は「笑われる可能性が考えられないほど自明なもの」、あなたからすればそれくらい「笑われる筋合いがないもの」なのだ。
自明であるがゆえに、「笑うあなた」の「これ笑えるよな?」という共感を求める問いかけには、まったくと言っていいほど否定されることは想定されていない。
だからこそ、ギャグ漫画という「笑うあなた」のセンスを象徴を否定されたとき、自明性を無残にもはがされたところにいる脆いあなたは、恐怖を覚える。



だから、これだけ頭に入れておいたほうがいい。
対象を(笑)っているときの僕だけは、あなただけは、「生身の僕」であるし「生身のあなた」にほかならないということを。