いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座、直毛によるブログ。今ここに、ポスト宮根誠司を目指すことを誓います。

ほのめかしツイートに関する私見

10月最後の日曜日、いかがお過ごしですか?
ここ数年、日本の10月末あたりが年々慌ただしくなっているのを皆さんはお気づきだろうか。今日はハロウィンである。
考えてみれば、東京ディズニーリゾートがハロウィンに合わせて特別な催し物ものを始めたのもここ最近。ちまたの雑貨屋も、昔以上にハロウィングッズの品ぞろえを増やしてきている。どう考えてもここ数年の話だ。そう、「ハロウィンは日本人も盛り上がるもんだぞ?」的な無言の圧力が、年々増してきているのだ。
それに対して国民は「ハロウィンは日本人も盛り上がるもんだぜい!」とまではまだいってない。国民もそこまでアホではない。だが、毎年真綿で締め上げられるように圧迫され続ければ、やがては「ハロウィンは“昔っから”日本人も盛り上がるもんだぜい!」の側に常識が傾く可能性は十二分にある。歴史は勝者によって作られるのだから。
そんな風に、不況にあえぐ日本の経済界が新たに見つけた鉱脈といわんばかりに一気にハロウィンを、クリスマスやバレンタインに続く西洋由来の日本の恒例行事に仕立てようという魂胆が透けて見えるのは、僕だけだろうか。こんなデザインして言うのもなんですが。



社会学者の鈴木謙介がパーソナリティをつとめるTBSラジオの番組、文化系トークラジオLifeの先週の放送(たしか本編終了後にustのみで配信された外伝)で、Twitter上での「ほのめかしツイート」なるものについて、ジャーナリストの津田大介氏らとの会話で話題になっていた。


「ほのめかしツイート」とは何ぞや?
べつに公式の言い回しではないし、スラングとして流行っているとすら言えない。厳格に定義できるもんじゃないだろうとも思うが、昨日とある後輩クンにリプライで質問された際に自分なりに考えた説明を再利用すると、おそらく多くの場合相互フォローしている間柄ということになるが、例えば誰かがTL上で「○○(人であったりモノであったり)が好きだ」とつぶやいたとする。そのあとで、今度はあなたがそれに対してのリプライとしてではなく、単体のつぶやきとして「○○を好きなんて言うやつの気がしれない」などとつぶやく。これがオードドックスな「ほのめかしツイート」といえるのではないだろうか。


ここでキモとなるのは、@付の「返信」ではないということだ。相手にそのつぶやきは伝わるけれど、直接的な言及でないがゆえにあくまで一般論として、相手のつぶやきに対する感想、反応、反論や批評が表明される。おそらく、Twitterをしばらく使っていれば、直感的に「ああ、“あれ”のことね」と思い当たる節も一度か二度はあるんじゃないだろうか。。



この「ほのめかしツイート」、ネガティブな使い方をすれば、先に挙げた例があるように、いくらでも使うことができる。なにしろ、相手に反論する術を失わせているわけだから、ほのめかされて嫌な思いをしたという人も、少なくないだろう。


結論から言えば、僕はこの「ほのめかしツイート」、別にありだと思ってしまうわけだ。
これは以前書いたことと通じるかもしれない。
釣られた人は、釣られなかった人の受け取れなかった意味を受け取っている - 倒錯委員長の活動日誌 釣られた人は、釣られなかった人の受け取れなかった意味を受け取っている - 倒錯委員長の活動日誌


文章は、すでに公開された時から書いた人のものであると同時に、読んだ人のものでもある。それは書いた人と読んだ人が、文章の権利を半分ずつにして所有する、ということではない。文章というプレゼントは、書いた人が箱詰めしたときのそれと、読んだ人が箱から出したそれとでは、もうすでに“別物”になっている、ということだ。ほのめかすとは、書いた人が文意に隠された文意を介在させることだが、その意思がどこまでに介在し、どこからは介在しないと明確にコントロールできるほど、文章は書き手の自由にならない。


また、ほのめかすつもりはなかったとしても、事後的に「ほのめかしになっちゃってた(かも)」というリアルでの失敗談に、僕は事欠かない。「あ、今の言い方、この人に○○をほのめかしたみたいになっちゃってるかも!!!」と直後に気づきアタタタと一人反省に暮れたことが、今まで何度あったことか。ただ、僕にそれを言われた人が、それをほのめかしととるか単純な一般論としてとるかもまたその人次第である。


ほのめかしを一切排除したコミュニケーションはありえないし、ほのめかしがないということはすべての「解釈」を否定することにもなる。ほのめかしは書き手の相手が作ったものであると同時に、読み手のあなたが「作ったもの」でもあるのだ。そのように、お互いの思い込みや深読みが偶然にも重なった所に蜃気楼のごとく浮かび上がるのが「ほのめかし」だったという側面もある。僕の気づかないところで、あなたの気づかないところで、僕とあなたはほのめきほのめ返されを繰り返しているかもしれないのだ(なんのこっちゃ)。



「ほのめかしツイート」というものが日本のTwitterユーザーの間で問題になっていくとすれば、それは日本人に巣食うある種の「潔癖主義」のようなものの兆候的なあらわれなんだと思う。ほら、整形したいという彼女に彼氏が「整形がイヤなんじゃない。整形しようとするその魂胆が嫌なんだ」と吐き捨てるようなもんだ。「ほのめかしツイートがイヤなんじゃない。直接言わずにほのめかすやり方を選ぶその魂胆が嫌いなんだ」、みたいな。


話はぶっ飛ぶが、日本では核武装論の前に、「核武装論“論”」で議論がストップしていると、以前テレビでとある保守系の政治評論家が言っていた。「核武装論を公に議論すること」自体が、ある種のタブーになっているということだ。しかし議論の帰結とは関係なく、「核を持つかどうか話し合ってますよー」ということを海の外にアピールすることは、それ自体が効果を持つ。よく言われているとおりそれは外交カードの一枚とは呼べるのだ。


「核を持つかどうか話し合ってますよー」というのは、いわば「ほのめかし」だ。それに対して、「核を持ちます」という公式声明が、「世界」に対しての「リプライ」に相当する。「核持っちゃうかもー」とほのめかすことと、「核を持つ」ということの間には、千里の径庭が存在する。「核武装について議論する」ことと平和主義は、全く矛盾することなく一人の人間の中で共存できるわけだ。しかし、世の中にはその論理が理解できないという人がいて、おそらくそういう人が「ほのめかしツイートをする精神が気に食わない!」と気炎を上げるのだろう。



だいたい、Twitter上でほのめかすこと、ほのめかされることに嫌悪感をもよおすという人は、ほのめかしの悪い面ばかりを見ているか、良い面を無視しているとしか思えない。


人間、面と向かっては素直な好意やお礼を表明しづらいということもある。例えば、今日行った飲み会が死ぬほど楽しかった!こいつらとなら一生仲良くやっていける!そう確信したあなたは、ほろ酔いの終電の中でなにがしかのその「熱い想い」を伝えたくなるだろう。それを直接的に言うのはさすがにテレるし、場合によってはウザがられる。そんなとき、あくまで「独り言」として、そのひとときが自分にとっていかに楽しくかけがえのないものだったかをTL上に「ボソッ」とつぶやいとけばいいわけである。これだって「ほのめかし」のひとつの形だと言える。


そのほか、意中の女の子を学校で見かけるたびに「今日はトレンカにデニムのスカートっと(。_。)φ」という具合に、毎日毎日TL上で彼女についてつぶやき執着していることをほのめかし続ければいいのだ。そしてやがては、フォロー返さないとなんか怖いんでとりあえず義理でフォローしてくれていた彼女も、あなたのその想いにきっと気づいて、震え上がるだろう。
そのときあなたはきっと学園のヒーローになるはずだ!


そのことだけはここでほのめかしておく。