いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

女のかぶる「姥皮」という問題

最近読んだ中村うさぎのエッセイ、『「イタい女」の作られ方』の中で、「女の世界」で生き抜くための処世術として女たちが被る「姥皮」の話を紹介している。

「イタい女」の作られ方―自意識過剰の姥皮地獄 (集英社文庫)

「イタい女」の作られ方―自意識過剰の姥皮地獄 (集英社文庫)

「姥皮」は昔話の一種で、要約すると次のようになる。

ある村に美しい娘がいて、継母にいじめられた末、都で働くために村を出発した道中で山姥に出会う。その山姥から娘は、お前は美しいから誘惑が多く、災いを被って幸せになれないだろうからと言われ、被ると醜い老婆に変身できる「姥皮」を授かる。
都に出て長者の家の下働きになった娘は、山姥にいわれたとおり「姥皮」を人前では決して脱ぐことなく、人からは働き者の醜い老婆として重宝された。
ところがある日、その家の息子に姥皮を脱いだところをうっかり見られてしまう。娘の真の美しい姿を見たその息子はたちまち恋に落ち、彼女に求婚する。周囲の人間も、娘の日ごろの働きぶりの良さに感心して喜んで娘を嫁に迎え、かくして娘は何不自由なく暮らした。
めでたしめでたし。

ざっとこのような話。

この「姥皮」の物語のキモを「若く美しい娘が姥皮をかぶって醜い老婆に変身し、最終的に幸せをつかむ」と中村は解説する。中村は、「ネタミ、ヒガミ、ソネミ」の渦巻く女子校社会にて、ある美人の女友達が、「姥皮」をかぶっていなかったばっかりに陰でバッシングを受けたという事態を目の当たりにして、「姥皮」の必要性を悟る。

 この教訓から、私が身につけたのが「姥皮」である。いや、私だけではない。多くの女生徒たちが、女社会での処世術として無自覚に「姥皮」を取り入れた。美しい娘が醜い老婆に変身するツール……たとえ「美人だね」と褒められても決していい気になって嬉しがってはいけない、いや、嬉しがるどころか危機感を覚えて慌てて「姥皮」をかぶり、「えーっ!?私が美人?冗談じゃないよ、服着てるからわかんないけど腹なんかヤバいよ、ほら見て」などと制服をめくり、たるんだ腹の肉でも披露して、みなの笑いを誘わなくてはならない。「笑い者になる」ことは、ひとつの免罪符となる。美しくても勉強ができても、この「姥皮」という自虐の化身術で笑いをとれる技術がなくては、女社会に生きる女としては半人前なのだ。


p41

中村は、上下関係で築かれ弱肉強食が信条の男の世界の住人たちには「姥皮」がわからないと指摘する。たしかにこういう動画を視るにつけ、彼ら(僕ら)には「姥皮」なんてものの存在を知らないだろうしそれをかぶる意義も思い浮かばないのかもしれない。

けれども、能力があれば基本的にはのしあがえることになっている男社会とて、不用意なのし上がり方は禁物だ。そのことを古の人はこう表現した、「出る杭は打たれる」と。男社会の中には男社会に所属する者だけに向けられる「ネタミ、ヒガミ、ソネミ」が渦巻いている。ただ男の場合は、「姥皮」と呼ばず「自虐」と呼ぶ。本気で自分大好き、自信過剰な人はたいてい組織の中で浮く。男にとっても「姥皮」=「自虐」は、他者からの批判を免れるための基本装備と化しているのだ。そのため、普段から気軽に自虐を飛ばしすぎて、就職活動などで「自己アピール」なぞ命じられれば頭真っ白になってしまうほどだ。



だが事態はすこし変わった。
男女平等が叫ばれ、男女の価値観が接近している、といわれている。そんなかで、僕が思うに男の「ネタミ、ヒガミ、ソネミ」も「ジェンダーフリー」化しつつある。今や、自分より持て囃される者、能力がある者は、男であろうと女であろうと「ネタミ、ヒガミ、ソネミ」の対象になりうるし、逆に「姥皮」を着る側も相手が異性だからといって、容易には「姥皮」を脱ぎにくくなりつつあるのだ。中村曰く(昔の)男ならば理解しえなかった「姥皮」についても、オッサンよりは嗅覚が冴えているという実感が僕にはある。これも嗅覚が冴えた効果なのだろうか。ひとつ思うのである。

「姥皮」をかぶる女も、巧みな人と稚拙な人がいないか?と。

中村うさぎのこの本は、そういった「姥皮」をかぶることを知らない自意識過剰の「イタい女」の考察をテーマにしているので、姥皮を着る/着ないことに議論は向かう。だが、僕のこれまでの短い人生経験上はこの「姥皮」、着ているつもりの人の側にも、上手く着る人もいれば「着損じている人」もいるんじゃないだろうか。

「着損じている人」というのは、いわば「姥皮」を着ているということが他人からすれば見え見えな人のことだ。

お前その「姥皮」サイズあってないぞという人

例えば容姿をほめると「私はブスだしモテないよー」と返してくるその人が、グラマラスで超絶美女、モテないように見えているのは周りの男が圧倒されて気後れしているだけだった・・・としたらどうだろう?自分を醜いだのモテないだのと言って卑下するのは「姥皮」の代表的な「一着」だと思うが、それをあからさまな美人やかわいい子が着てしまえば、もう嫌味以外の何ものでもなくなってしまう。
こういう人、意外と少なくないだろう。例えるなら「姥皮」のサイズが自分と合っていなくて、ピチピチで本当は巨乳であったというのがバレているのに等しい。貧乳の同性からすれば、余計ボディコンシャスになるのだから、ヒガミもより一層募るというものだ。
本当は美人ということがもう変えられない「宿命」なのだから、そういう人が「姥皮」を着るならば、そのスタイルに合わせてもっとぶかぶかな「当たり障りのない自虐」を選ばなくちゃいけないだろう。そもそも、その場で明らかに他を圧倒している人が、「姥皮」を着るの自体がほかの人を暗鬱とさせるという話もあるが。。。

お前「姥皮」がめくれて「地肌」見えてるぞって人

もうひとつは、もうね、本心では「姥皮」を脱いで素直にチヤホヤされたくてされたくてしかたないのに、周りが着てるからしぶしぶ「姥皮」を着ているというタイプの人。
こちらは言葉の節々に、相手に「そんなことないよー」とか、「それってすごいねー」いう相槌という名の「合いの手」を入れる間を与えてくる。話を聞いているこちらが褒めるということを暗に「強いられる」のである。こういう人は男女問わずにけっこういる。「姥皮」の隙間から「地肌」がチラチラ見えているのだ。

ちなみに以前、そういった自虐しながらもほめてほしくて仕方がないという人について友達二人と話が盛り上がった。その三人の中で、心優しい僕はそれが相手の用意した「褒めてくれ!」という合いの手だとわかっていながらも、あえて相手の策略に乗って「褒めてしまうタイプ」。もう一人は、相手の「合いの手」を感知したとしても、その指示通りするのが腹立たしいので「気づかないフリをするタイプ」。もう一人が、相手が「合いの手」を用意してきたらあえて「そういう人、よくいるよねー(つまりあなたは特別ではない)」と積極的に「合いの手を殺すタイプ」の三派に分かれた。あなたはどれにあてはまるだろうか?

結局なんでこういうまどろっこしい人がいるのかというと、自分を評価されたい、評価されてしかるべきだという自意識があるものの、その自意識の「表皮」がもろいのだ。評価はされたいけれど、評価だけが流れ着くとは限らない。自分の望まない他人からの批判には耐性がない。だから、あからさまに自己アピールはできず、周りにならって「姥皮」を着てはみるものの、本心は全く正反対なのでそういった「地肌」が隠しきれていないわけだ。



結局、諸悪の根源は「ネタミ、ヒガミ、ソネミ」なのである。こいつらをたぎらせている暇があるなら努力をして、自分が「ネタミ、ヒガミ、ソネミ」を持たれるくらいになればいいのではないか。だが、言うは易しである。多くの人は、他者に「ネタミ、ヒガミ、ソネミ」を募らせ、同時に「ネタミ、ヒガミ、ソネミ」を持たれる心配をしながら「姥皮」=「自虐」の衣を身にまとう。
こんなプロセスまどろっこしいではないか。めんどくさいではないか。みんながみんな、一気に「ネタミ、ヒガミ、ソネミ」を放り投げれば、これは解決するのにも思うのだが、そうはいっても「ネタミ、ヒガミ、ソネミ」があるからこそ「リベンジ」への情熱が燃えるという人もあって、なかなか解決しない領土問題のように、これは難しい。


だが、これだけは忘れてはいけないということがただ一つある。
たいていの場合、「ネタミ、ヒガミ、ソネミ」に全くわずらわされない人、「姥皮」をかぶっている暇なんてないくらい一心不乱に打ち込んでいる人が、「ネタミ、ヒガミ、ソネミ」のパワーゲームをバビューンとすっ飛ばして、最終的には一位をとってしまうものなのである。