いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

究極の<オッサン>を目撃した


<オッサン>というのはどうやって定義できるだろうか、とオッサン予備軍である者として考えることがある。どうなってしまえばオッサンになってしまうのか。いろいろな定義があるだろう。枕からお父さんの臭いが出始めただの、飲食店での出されたおしぼりで顔面をゴシゴシやるのに躊躇なくなったらとか、人それぞれかもしれない。
ここで独断と偏見をもって<オッサン>を定義させてもらうと、それは意識の針がある方に振り切れてしまうことに他ならない。どういうことか。



人はだれしも、<視る私>と<視られる私>とに分裂している。物質としてこの世に存在する以上、だれも<視る私>だけに安住してはいられない。面と向かっている以上は、<視られる私>であることも甘んじて受け入れなければならない。

ここで大切なのは<視る私>と<視られる私>の、その両輪にどのような比重で意識を持つかということだ。これにはおそらくジェンダーバイアスがあり、また年代別によっても変わってくるだろうし、時と場合でも変わってくる。


しかしそれでも、まず女は男に比べ<視られる私>に対してきわめて多くの意識をさいている。逆に言えば、男は女ほど<視られる私>に気を配らない。


それでも若い時は、身だしなみに気をつけるだろう。だが老いるにつれ、<視られる私>への意識の配分が、めんどくさくなってくる。そもそも<視られる私>へ注意をさくことに、多くの男は本源的には興味はない。若いころの彼らは、<視られる私>に気を配ることを「母親」や「彼女」や「妻」、さらには「社会」といったものからいわば「言われてしぶしぶやっていた」だけなのである。

男が本来何をしたいのかというと、とにかく「視たい」のである。人でも景色でもテレビでも映画でもアニメでもマンガでもなんでもいい。超視覚型に特化した人類オスはとにかく、視て視て視つくしたいのである。人によってはもしかすると、性的対象との実際の性行為よりも、性的対象を視ることの方がより甘美な行動なのかもしれない。「視姦」という言葉は女の行う言葉としてはあまりつかわれないのは、そのことの証左だろう。
そしてなによりも中年(断っておくと、中年イコールオッサンではない。中年とは年齢によって区分される生物学的事実にすぎない)になると、<視られる私>に気をつけていたって、これっぽっちもいいことがない。なぜならだーれも視てなんかくれていやしないから。中年にまでなってしまえばもう、<視られる私>に気を使うのは使うだけ無駄ということになっていく。


こうして<視られる私>が退潮し、<視る私>が俄然やる気になってきたならば、もう<オッサン>まであと一歩だ。逆に言えば、<視られる私>を完全に捨て去ることのできないでいる人は、どんなに年を取ろうと僕にとっては<オッサン>ではない。



そして、オッサンのオッサン性がその極致を迎えた「究極のオッサン」になるというのは、<視られる私>と<視る私>の、この繊細なバランス感覚が、もう躊躇なく完全に<視る私>のほうに針が振り切ったときに他ならない。それが僕の考える、究極の<オッサン>だ。究極の<オッサン>はなんでもじーっと視る。たとえ相手からの「視返し」を受けることがあろうととも、<視られる私>が存在しない以上、<オッサン>は「最強」なのである。

なんでそんな観念の<オッサン>にこだわるのか。それはあくまで観念であって、現実に存在しないのなら意味がないではないか。たしかに僕も以前はそう考えていた。
ではなぜ、今日こうやって文章をしたためているかというと、実際にいたいからである、究極の<オッサン>が。



僕は先週、知人女性と某コーヒーショップのチェーン店に入った。

そこで飲み物を買って、二人掛けのテーブルに座った。しばらく話していると、オーラというか圧力というかなにか物々しい雰囲気を感じ、僕にとって向かって右側を見てしまった。

すると、僕らの座っていたテーブルの二つ向こうのテーブルから小太りのオッサンがこちらに、というよりも僕の知人女性に強烈な熱視線を送っていたのだ。風体は会社帰りだろうか、スーツにネクタイを脱いだ格好。

これがチラチラ見るくらいなら、まだわかる。
ちがうのだ。ガン視中のガン視なのだ。顔の向きだけではない。体勢もこちらに対して前傾姿勢のようで、今にも食って掛かってきそうな姿。目は座っていて眼光鋭い。それがなによりも怖い。


あらかじめ断っておくと、別に僕らがガヤガヤうるさくしていたわけではない。というか店内全体がBGMやら会話やらでうるさく、近くないと声が聞こえないほどだったのだ。だから、僕らへの抗議の視線ではないだろう。彼は、純粋に、<女>を視ていたのだ。


そんなオッサンの状況にまず驚いたのだが、もう一つ僕を驚かせたのは、途中で気づいて驚愕の面持ちで視ていた僕とオッサンは一瞬目があった、にもかかわらず、「なんだ馬鹿野郎」(荒井注)と言わんばかりに、さっさと女性の方に視線を戻したのだ。つまりオッサンは<(女を)視る私>に徹しているのだ。<視られる私>への淡い未練もこだわりも、はじめから捨て去っている。少なくとも僕からはそのように見えた。完全に<視る私>に針が振り切っていた。


それがラッキーだったのかアンラッキーだったのかはよくわからないが、僕と一緒にいたその女の子は、視られている本人ながらも角度と髪の毛が邪魔してオッサンに熱視線に気づいていなかった。実際に後で店を出た後に聞いたら「そんなオッサンいたの!?」と戦慄していた。かくして、僕の方を見ながら話を視続ける女の子と、その女の子の方と同時に、いつ襲いかかってくるかわからないオッサンのほうに気を配る僕と、さらに僕に視られながらも、女性を穴が開くほど視つづけるオッサンの三角形が、夜の8時台のド×―ルでできあがったのだ。


このとき僕はどういう行動をとるべきだったのか。今でも答えは出せないでいる。というのも、オッサンは臨戦態勢のように前のめりの姿勢になりながらも、結局視ているだけだったのだ。たまに僕らの周りを何をするでもなくうろうろしていて、そののときが一番怖かったが、それのときですら僕らのどちらに触れることすらない。結局、彼の行動を要約すると「こっちを視ていた」に集約される。ただその視方が強烈だっただけなのだ。


オッサンに「視ないでください」と、率直に注意すべきだっただろうか。ほとんど僕が言える可能性ゼロのセリフだが、もし言えたとしても、視ているだけだからそっちを視ているわけじゃないなどと言えばいくらだって言い逃れができる。


その日、僕がこれから生きる上で重要なある基本的な指針が決まった。反面教師的なロールモデルだ。あのオッサン、あのオッサンのようにはなるまいと固く決意した夜なのであった。