いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

マスメディアが陥った、常に新しく、常におもしろくという隘路


前回に続いて、日本テレビ24時間テレビの話から。
おそらく多くの国民が、この番組に対してすでにうんざりしている。そして、「もう24時間テレビはうんざいだよね」という話も、すでに語りつくされてうんざりしている。それでも、おそらく来年も夏休み終盤のあの時期に放映されることは目に見えているから、おそらく8月四週目の週末の武道館のスケジュールはすでに押さえられているから、そして、おそらく来年の24時間テレビにも我々はまたうんざりさせられることが目に見えているから、さらにうんざりなのである。

われわれがこのように24時間テレビにうんざりくるのは、チャリティーに対して付きまとう偽善臭さというのもその原因の一つだろう。だが、うんざりくるというのは、もっと端的な事実、「毎年放送される」ということに対しての感情なのではないか。毎年、同じように感動を共有/強要しようというあの番組のあり方に、国民はうんざりしているの。しかし、この24時間テレビが毎年感動を共有/強要しようとすることで、かえってどツボにはまっていくという構造は、どこか今のマスメディアの象徴的な兆候にように思えるのだ。



内田樹が先月だした『街場のメディア論』には、タイムリーにもそのことに関連する論究がなされている。内田は学校教育制度や医療制度など、急変に適さない「社会的共通資本」の領域でも、一にも二にも「変えろ」を大合唱するマスコミのその理由について、こう分析する。

 考えれば当たり前のことですけれども、社会が変化しないとメディアに対するニーズがなくなるからです。「今日も昨日とあまり変化がありませんでした。みんな無事でよかったですね」と言祝ぐ習慣はメディアにはありません。何も起きないことが何も起きないことが生身の人間たちにとっては実はいちばん幸福なことなのですけれど、メディアはそれを喜ばない。劇的変化が、政治でも経済でも文化でも、どんな領域でもいいから、起こり続けること、メディアはそれを切望します。


内田樹『街場のメディア論』p111

街場のメディア論 (光文社新書)

街場のメディア論 (光文社新書)

グレゴリー・ベイトソンによる古典的な情報の定義に、「情報とは差異を生み出す差異である」というものがある。おそらく、これは内田氏のいいたかったことと表裏をなしているだろう。ニュースが「今日も昨日とあまり変化がありませんでした」と報じることでは、端的に言って情報には「ならない」のである。そして同じく、「明日も今日と同じでしょう」も情報にならない。発信している内容が情報にならないというのは、「情報を売っている」マスメディアにとっては、死活問題に等しい。「変わらない」が例外的に許されるのは天気予報だけだろう。それ以外の分野において「既出」という事実は、それ自体質の低いものと判断される烙印なのである。


そうであるがゆえに、マスメディアはしごく必然的に変化を、ベイトソン流にいえば「差異」が差異化しつづけることを欲望することになる。



これも同じく新書だが、『テレビの裏側』という本を以前読んだことがある。

テレビ局の裏側 (新潮新書)

テレビ局の裏側 (新潮新書)

当時は、関西テレビの「あるある大事典」がねつ造VTRを放送したということで世間を騒がせていた時期だった。だがこの本を読むと、ねつ造の生まれるメカニズムはきわめてわかりやすい、しごくあたりまえの構造のように思えてくる。
端的に言うと、(「納豆でやせる」等々の)イノベーティブな発見が毎週のごとく表ざたになるなんてことは、ありえないのだ。
ありえないならありえないで、「大発見」とはいかずとも「中発見」「小発見」くらいにとどめて、それを堅実なコンテンツに仕立てていけばいいわけだが、それでは衆目があつまらない。「視聴率=金」という収益構造ができている放送業界では、結果的に「恒常的に大発見(イノベーション)を発信し続けなければならない」ということになる。

最初に「伝えるべきこと」があって伝えるのではない。まず「伝えなければならないという事情」があって、伝える。ここにわかりやすい手段と目的の転倒がある。そうなれば、「ねつ造してでも大発見を・・・」という帰結までは、あと一歩だ。



「伝え続けること」が何よりも前提条件となったマスメディアでは、必然的に伝える情報の劣化が生じる。このことについては、以前ハリウッド映画にも感じたことがある。
ハリウッドでは、2000年代に入ってから「不作」と呼ばれていた時期がある。だが、その時期にもゴミのような駄作が生産し続けられた。もうすでに終わっているはずのシリーズを無理から続編として墓の下から掘り起こしてみたり、まったく別の作品に登場するキャラクター同士を抱き合わせて一本の映画を撮ったりと、それはそれはひどい時期があった。


このとき高校生だった僕はこう思った。「なぜ、勝算の薄い企画がこうも作品になっているのだろう」と。ハリウッドで映画を撮っているのだ。おそらく名うての作り手たちがホワイトボードに持ち寄ったいろいろなネタを書いて、うーんうーんと唸りながら議論を続けた末に生まれた企画なのだろう(妄想)。しかしそのうえでも、「これじゃお客さん入んないわ」という判断が、どうして彼らにできないのか、僕は不思議でしょうがなかった。


しかし、今考えてみればこれは当たり前のことだ。
というのも、彼らの置かれているのは「いい作品が思いつき次第作る」という立場ではない。「良作だろうと駄作だろうととりあえず作り続けなければならない」という立場なのだ。映画にかかわる人、俳優から大道具さん、メイクさんやCGアーティストまでみんな含めて、とりあえずそこに現在制作が進行中のたずさわれる作品がなければ、それは即仕事にあぶれるということになる。僕は詳しくないが、映画協会などが作る緊急の失業保障などの制度もあるかもしれない。しかしそれはあくまで急場しのぎで、基本的には作り続けなければならない。



「恒常的なイノベーション」というのはある種の語義矛盾をはらんでいて、そんなことを成し遂げる集団は、おそらくこの世に存在しない。僕の周りにもひとり、会うたびに僕に「面白い話して!」とせがんでくる人物がいるのだけれど、たとえ僕が、就活の自己分析で「面白いとよく言われる人」に問答無用でチェック入れられるような愉快で楽しい男であったとしても、毎回そんなことを言われると、もうかんべん、無理なわけだ。

繰り返しになるが、マスメディアの余った隘路は、情報があるときに伝えるというよりも、情報を伝え続けなければならないという収益構造が先に構築されたうえではじまったところにある。そうなってくれば、必然的に起きるのは、伝えられる情報の劣化である。


この点、内田樹も先の著作でふれている「ミドルメディア」という概念は、非常にフレキシブルにできている。アルファブロガーによるブログなどもそのなかに含まれるのだけれど、ミドルメディアはいわば「伝えたいときに伝える」、もしくは「伝えるべきときに伝える」メディアである。それ以外はだんまりを決め込んでおけばよいのだ。


収益の構造もその分、マスメディアに比べれば小規模だろう。しかし、これからさきマスメディアが生き残っていくための選択肢として、PPVなどの課金型システムへの移行も十二分に考えられる。少なくとも、常に垂れ流し、どんぶり勘定でお金が流れていくという現在の収益構造は、変えざる得なくなっていくだろう。これからはそんな、いわば「マスメディアのミドルメディア化」のような変化が、一部で起きないとも限らない。そしてそれは、収益構造のダウンサイジングをも意味している。

しかし、このことは、すでに24時間テレビを見限った情報の受け手たちにとっては、さしたる問題ではないのかもしれない。彼らにとってもし何かが変わったという実感をもつとすればそれは、「業界人は高給取り」という常識(≒偏見)が過去のものになりはてる、それくらいなのかもしれない。