いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「老い」について考えてみた(前編)〜100歳超高齢者不在問題編〜

東京都内最高齢の男性として都から認定を受けていた男性が、実は何年も前に死亡していたという事例を受けて自治体の調査が全国的に行われ、100歳超の高齢者の所在不明の事例が複数あることが、ここ最近取り沙汰されている。
100歳を超えるというと珍しいように思えるのだけれど、実は日本全国に100歳以上の高齢者は4万人以上いる。その膨大な量と個人情報保護の壁から調査は難航しているという。これからもこういった社会的には「生きていた」が、肉体的には死んでいたという事例は増えていくんじゃないだろうか。もしかすると100歳代なんかで終わらず、90歳代にもこういう事態は起きてそうだが、調査するとすれば数の点でぐっと困難さは増すだろう。



生きているか死んでいるのかわからない。そんなこと、この21世紀の日本で起こるのかというくらい時代錯誤な出来事という印象をうける。
先日もNHKの番組で100歳超の世代の子供にあたる世代(といっても70代くらい)に巣鴨かどこかでインタビューしていたが、インタビュイーはみな起きている事態への怒りをぶつけるというより、おおむね唖然とした表情で「(うちの家族に限って)そんなことは起こりえない、信じられない」といった回答を残していた。
だが、こういう「信じられない」という価値観は注意深くあつかわないといけない。
なぜならそこには、僕らが何を「当たり前」に登録しているかが裏書きされているからだ。



ここでの「当たり前」とは、人が亡くなれば家族によるもろもろの作業工程を経て、肉体的のみならず社会的にも葬送される、ということについての言及だ。肉体は葬儀の後に火葬場へ届けられ、同時に医師に書かれた死亡診断書は行政機構へ届けられ、その人は肉体もろとも、社会的死もようやく迎えることとなる。これが「当たり前」の人には「当たり前」なのだけれど、「当たり前」から一歩外れたところでは、一転して「不思議なこと」へ様変わりする。


生きとし生けるものである限り人はやがて死に、自然の摂理によりその肉体は分解されていくが、そのことと彼ら彼女らが「死亡」と社会的に登録されるということは、まったくもって因果の関係にないということに、このような事態を目にするに思い知らされる。
つまり、死んだことを社会に伝える家族がいなければ、また家族が恣意的に伝えようとしなければ、場合によってはその人は社会的には生き続けることとなる。


ちょうど昨夜、日本テレビ系列であの『時かけ』のリメイクを成功させた細田守が監督した『サマーウォーズ』が放映された。はからずとも、あの映画で描かれた粘っこいほどの恩着せがましい地縁コミュニティーは、タイムリーな話題を提供しているといっていいだろう。老人が、枕元にあつまった子供らと孫らに見守られながら息を引き取る、つまり肉体的死と社会的死を同時に迎えられるという「幸福」は、ある意味貴重なことなのだ。


そういう意味で、今回の大量に発覚したこの件は、近代国家にとって不可欠な国民の「管理」が意外と「てきとー」であったことを知らしめた結果になったが、お隣の中国だって未だに正確な人口を把握できてないという事態も10億以上いればそりゃそうなるよなと合点がいくし、同時にこちらも1億オーバーで十分に統計的には大変な数なのである。
それよりも僕はこの「当たり前」の意識こそ、興味深いと思えてくる。




奇しくも最近、大阪でシングルマザーの母親に置き去りにされた二児が腐乱死体として見つかったいたましい事件があった。乳幼児と高齢者、両者には共通点がある。それは、自発的に「社会」に働きかけにくい、ということだ。いわば両者は、「社会」からもっとも遠いところにいる。
よちよち歩きの乳幼児も、寝たきりの老人も、その運命の大半を社会との媒介項となる共同体にゆだねているということになる。そしてその多くは家族だ。
その家族が機能不全に陥ると当然、両者はとたんに剥き出しの社会の中に突き落とされることになる。



そんなことを書いていて憂鬱になってくるが、そんな気持ちになるのは当然、僕らもやがては老いさらばえていくからだ。これはまったく無関係な問題ではない。

子供のうちに虐待死に遭わないかどうかというのは率直に言って、「運」である。どんな倫理観を持ち、どのような行動原理で人生を送る親のもとに生を受けるかで、それはもう半ば決定しているといっていだろう。


とりあえず僕は、そしておそらくこの文章を読んでいるあなたも、この最初の「運試し」には成功したのだろう。


もう一方の老人になってからの問題は単なる「運」ではすまされない。



医療の発達によって、日本は他に類例を見ないような超長寿国となった。だいたい人間一人が平均でおよそ80歳までは生きることのできる計算になるらしい。

こう聞くとわぁすごいという気にもなるが、ここにはある種の「錯誤」がある。というのも、おそらくではあるが平均寿命が50歳だったころと同じくらいに、今の50歳も老いているからだ。つまり、例えば人生50年だったときの25歳の肉体的年齢が、寿命が80年になったときそのスパンでもう一度等分されて40歳のころにくるというわけではないのだ。たぶん昔の25歳も今の25歳も肉体的には大してかわらない。


ではどこで帳尻を合わされるかというと、「長寿になった分」というのは、老いきったあとの年齢が増えているだけなのである。語弊があろうがいわばそれは、「一番しんどくなる時期」が間延びしただけ。


もちろん医療の発達やそこでも効用をしめし、疾病などへの配慮はかつてより行き届いている部分もあるだろう。


しかし、社会的にはどうだろうか。定年がおおむね65歳のままで固定した現状、会社共同体から離れて「孤独になりやすい時期」が間延びしたということは、間違いなく言えるだろう。


これまで、「長生き」や「肉体的な健康」というのは盛んに取り沙汰されたとき、一方で「当たり前」だった人間関係の「インフラストラクチャー」はさして問題視されなかったけれど、実はこちらが手薄になっていたがゆえに、今回のようなに顕在化するまで放っておかれたという側面はないだろうか。


(つづく)