いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「聖地」は自発的に作れるか?

ラブプラス+というゲームを絡めて、熱海でちょっとしたすごいことが起こっているらしい。


http://www.konami.jp/loveplus_plus/atami/


まとめサイトでは早くも、「彼女」と同伴で旅行に行ったという幸せな方々による渾身のレポが紹介されている。


http://blog.livedoor.jp/insidears/archives/52341405.html


先週の日曜日の日本テレビバンキシャッ!も、この模様を特集していた。なんでも、事前に「ラブプラス+で泊まります」と伝えて予約すれば、布団やベッドも二人分での部屋に泊まれるという粋なサービスをやっている旅館があるらしい。
番組ではその旅館が紹介されていた。
オタクのとある男性が「彼女」と宿泊に来たのだが、旅館側のミスで予約がただの一人部屋になっていて、「彼女」をベッドに寝かせ自分は床に直に横たわっていた。あれが単なる仕込みでないマジハプニングなら、彼はいつか彼女とこの旅行のホロ苦い思い出を楽しげに振り返るのだろう、きっと。



番組では他にも、洞爺湖で先頃行われたコスプレイベントなどもとりあげ、アニメやマンガやゲームといったサブカルチャーのファンたちによる「聖地巡礼」が、疲弊した地域や観光産業の活性剤になっている、という状況を伝える内容だった。
当然、こういう現象には反発もあり得る。
現にスタジオでは「違いがわかる男」こと宮本亜門が、やはりこれはまちがってるんじゃないだろうかということを、言いかけてやめていた。


推測するに亜門はその内容が陳腐だと思い、言いかけてやめたのだろうがわからんでもない。
地域には「その土地固有の歴史、文化、風土」があり、サブカルチャーという非歴史的な人工物に頼らずとも、努力をすれば観光客も呼び込めるはずで、本来はそうやって存続されるべきものではないか。おそらくそういうことだろう。


言いたいことはものすごくはわかる。



だがだ。
つきつめて考えていくと、もともとあった「その土地固有の歴史、文化、風土」と、人工的に植え込まれたサブカルチャーという仕掛けには、根本的な違いが見いだせるのかとも、言えるわけだ。


それは、今起きている「歴史ブーム」が兆候的に表れている。
今持てはやされている戦国武将というのはアニメ絵で表象される、いわば「フィクション」なのだ。
もっといえば、ブームの前から全国各地のお城などに足繁く通っていたファンというのも、おそらくきっと、戦国武将にあった人はいないはずで、いにしえの戦士に思いを馳せるには、現代までに続く伝記的史実に頼るほかない。

そして、数百年という長きにわたる「伝言ゲーム」によって伝わってきた彼ら戦国武将の表象が、どれだけ当時の「事実」に寄り添っているかは、かなりあやしい。
結局、戦国武将だって、限りなくフィクションに近いノンフィクションだと、言えやしないだろうか


また風景についてはどうだろうか。
地元民でない限り、その土地の名所はメディアを介してしか知り得ない。
その「風景」というのも、理想的な形に加工された上で観光客に届けられていることは、言うまでもない。
実際に行ってみない限り、それら補正されメディアに流通する「風景」が、我々にとっての「観光名所」となっていると、言えなくもない。




このように現代思想的な脱構築(≒屁理屈)の魔法をまぶしてみれば、「その土地固有の歴史、文化、風土」であろうと、まったく「フィクション」
とは無縁であるとは言い切れない。


ただ、別に僕はこのことをもって地域の観光事業を批判したいわけではない。
そうではなくて、数百年からの年来を経た「その土地固有の歴史、文化、風土」であろうと、一年や二年そこらの制作年でしかないサブカルチャーであろうと、フィクションによるコーティングを、少なからず受けているということだ。
現に、水木しげるに染まる境港が「らき☆すた」に染まる鷲宮に比べ、全世代的に抵抗なく受け入れられているという現状があり、その二つを分かつのは単なる「年輪」のちがいにすぎない。
それに加わるアレルギーがあるとすれば、あのどぎつすぎる「アニメ絵」に対するそれくらいだろう。



だから、「その土地固有の歴史、文化、風土」とサブカルチャーを両者から区別して、後者を排除し前者の存続を優先する言説を紡ぐよりも、両者がなぜに旅行者を引きつけるのか、という「共通点」の方にこそ目を向けることの方が、幾分か生産的なんじゃないだろうか。


「その土地固有の歴史、文化、風土」とサブカルチャー、両者に共通するのはいわば、「物語性」だ。
歴史とは、連綿と続く「物語性」に他ならない。
一方、「聖地巡礼」の背景では、サブカルチャーによってある土地に「物語性」が付与させれたことによって、ファンを観光客として動員するというメカニズムが存在している。
ある土地において、ある登場人物たちによって紡がれた物語によって立ち現れる「物語性」という点において、実は既存の観光事業がやろうとしていることと、サブカルチャーが結果的になしえた所産というのは、大差がないのだ。


しかしそれだと、結果的に既存の「その土地固有の歴史、文化、風土」が、後からやってきた「サブカルチャー」によって根絶やしにされるのではないか?という恐れはもちろんある。
そしてなによりも僕は、宮本亜門の感情も同時にわかるのだ。
こういった“古き”を“新しき”が駆逐していくかもしれないという事象に対面するとき、僕は「行き着くところまでいっぺん行ってみよう」という考え方をとる。
行ってみて、ダメだったらもういちど戻ってみよう、ということだ。



すると、逆の考え方もしてみたくなる。
これまでの「聖地巡礼」とは、最初は外から恣意的に付与される「物語性」を地域が受け身にとらえ、その後うまく観光事業として定式化したという側面がある。
逆に言えば、サブカルチャーの舞台にしてもらえないかぎり、「聖地巡礼」の恩恵にはあずかれないわけだ。


だからこれからは、むしろ積極的に「物語性」を呼び込むべきなんじゃないだろうか。
例えばだ。
アニメやゲームの企画段階で、制作会社が全国各地域の観光協会にアナウンスをかける。
制作サイドは、アニメの舞台やゲームにて発生するイベントなどの「舞台権」のようなものを、競売にかけるわけだ。
そうすることで、制作サイドは制作費を稼げる。
その一方で、落札した観光協会はその作品が当たれば作品のファンが観光客という形に変わって、地域を訪れお金を落としていってくれるだろう。
「舞台」になったことで、抜群の動員力を獲得できるというわけだ。


もちろん当たれば、だ。


当然「返り」の少ないというケース、つまり作品がハズレだったという事例も起きうるだろう。
それによって催される不平等感を押さえるために、制作サイドはクライアント(観光協会サイド)にコンテンツの内容やヒットする見込みなどをできるだけ詳細に、オークションの事前に説明することも求められるだろう。
人気シリーズの「続編」は、信頼性が高く高値で売り買いされるかもしれない。



もっともこの種の手法は、ある意味「観光地CM」という側面がある「二時間サスペンス」では、以前から常道であったがはずだ。
だから、こういったビジネスモデルは、今までのそれの徹底にちかい。


個人的な見解を述べれば、これからの消費社会というのは、きっとフェティシズムに訴えかけていくしかない生き残る道はない。
今やネットから商品の詳細な情報や、口コミの情報は即座に伝播する。
この国の消費者というのは、いまや世界有数の「賢い消費者」だろう。


そして、技術革新の臨界点に達したとき、売り手は必然的に価格競争に突入せざるを得なくなる。
大まかにいえば、これが現状なのだ。


だが、フェティシズムによって駆動する消費とは、商品の効果や効能といったものの精査は免れる、独特の次元においてなされるものなのだ。
いわばそれは、どうても「買ってしまう」、「買わざるを得ない」と思わせる消費だ。
身近なものだと、コレクター心理というのがあるだろう。
以前、あるお笑い番組のシリーズもののDVDのある巻のアマゾンレビューで、辛辣なコメントとともに「買わない」という宣言をしていた人がいた。
その批判が長々と続けば続くほど、その人のそのシリーズに対する並々ならぬ愛着がダダ漏れしているようで、興味深かった。
彼は結局その巻を買わなかったらしいが、その決断は断腸の思いで下したらしい。



ふつうに考えれば、商品の効果や効能で買う価値がないという判断が下せれば、それまでだ。
だがコレクター心理からして、例えば全15巻のシリーズにおいて、13巻だけ買うに値しないと「理性」では思っていても、「13巻だけないコレクション」というのは、少し大げさだが四肢をもぎ取られたような痛みを伴う。


僕が「フェティシズムに訴えかける」というとき、こういったコレクター心理をさしているのだけれど、「聖地巡礼」も同じ理屈で説明できないだろうか。
ある作品に心の底から浸水するオタクになるということは、入信に等しい。
キャラクターグッズは商品としてどんなにものが悪くても、神の御加護(公式)である以上手に入れるほかない。


え、だから「聖地巡礼」なんだって?