いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

僕らはなぜ<顔>から目を逸らしてしまうのか

<顔>、というものに興味をもっている。
いや、正確にいうとそうではない。厳密に言えば、なぜ僕らは人の特に顔に惹かれるのか、ということに興味がある。


今ここにいない恋人や家族を想うとき、僕らは当たり前のように相手の<顔>を思い出す。いやいや、オレは彼女のおっぱいやおしりを思い浮かべるよ〜というあなたも、だれだれさんととっさに会話の中に人名でてくれば、ほぼ間違いなくその人の<顔>を思い出すことだろう。


それは顔によって個人を特定できるから、だろうか。しかし個人の特定ならば指紋やDNAが何よりも正確なわけだし、仔細に体中を比べるとわかるが、爪の形や指の節々、髪の質まで、実は顔でなくても僕らの体には様々な種類の個人を特定できる要素がある。そんななかなぜ<顔>なのか。



<顔>の身体の他の部位に対する特権性があるとすれば、おそらく「眼差し」だろう。僕らの体中、唯一「見る」ことが許されているのは、<顔>についている眼球だ。人の眼差しというのは、不思議な力を持つ。あるときは声に出さずとも気配を醸しだしこちらの顔をそちらの方向に向けさせる誘因力をもつ。またあるときは反対に、その眼差しがゆえに目を逸らしてしまう磁場をもつことだってある。


こういう経験はないだろうか。
場所はどこでもいいし、相手はだれでもいいのだが、別の方向に視線がいっている他人の顔を眺めているとき、ふいに相手がこちらの視線に感づいたのか、こちらの方に向き直り、視線と視線がかちあってしまった刹那、今度はこちらが反射的に視線を逸らしてしまうということ。


僕はこれをよくやってしまい瞬間的に「しまった」と思っうのだけれど、目があったときどうして僕らはある種必然的に目を逸らしてしまい、さらに目を逸らしたことそれ自体に「やましさ」のようなものを感じてしまうのか。



阪大の学長である鷲田清一に、その名も『顔の現象学』という著書がある。レヴィナスをはじめ、哲学者や文学者の中には<顔>についての論考を残した人も少なくない。そういった論考を巡りながらの彼は思索していくのだけれど、もちろんこのことにも触れている。


 他人を見る、とわれわれは言う。しかし、もし「見る」ことが「ある対象を見る」ことと同じだとすれば、われわれは他人を見ることができない。わたしが他人を(他者の身体を)対象として見るのなら、そのときその他人はもはや「別の主体としての他者」なのではない。

(…)
他人と眼がかち合う、あるいはまなざしが交差するという出来事は、ある事物を、あるいはひとを、対象として見るという出来事とは決定的に異なる。そこでは、自他のまなざしが否応なく一つの磁力圏へと引き入れられ、シンクロナイズさせられるのであって、自他はともに一つの共通の<現在>に引きずり込まれ、そこから任意に退去することができない。



ここでいえるのは、こちら側が一方的に相手を見るときと、相手と視線が合っているときとで、視線には二つの「モード」があるということだ。
相手を一方的に見るとき、僕らの視線はフェティッシュなそれになっている。おそらく、そこらへんに置いてある「もの」を見ているレベルと大してたがわない。バッターボックスに立つ憧れの先輩の横顔を鑑賞する視線も、電車の中でおっさんが女子高生の太ももを盗み見るときのそれも、実は対象の「物化」という点においては大差ないのだ。
だが、相手と見つめ合っているときは、すこし特殊な状況だ。こちらが相手の顔を見ている。その点では物体を見ているのとは変わりない。問題は、自分と同じように相手も意志があって、自分の顔を見ながら何らかの感情を抱いている、ということなのだ。そして、相手に見られているという事実性そのものが、さらにこちらに何らかの負荷をかけていく…。


精神分析的に換言すれば、これは欲求と欲望のちがいといえるのかもしれない。
精神分析においては、欲求と欲望は異なる。人間の三大欲求といわれているが、食欲、睡眠欲、そして性欲は総じて、「オナニー」ですむということだ。最悪一人でも事足りる。溜まれば定期的に吐き出し、それですむ。一方通行の構造でしかない。


一方、欲望というのは同じような意志あり行動する他者限定に向けられるものだ。例えば恋愛は「欲望的」だ。ラカンの「他者の欲望の欲望」という格言が示しているが、それは自分が相手をどう思っているかと同様に「相手は自分のことをどう思っているか」を巡って駆動している。だから、なにもそれは性愛的な他者に限定されない。一般的なコミュニケーションにおいても、他者へ/からの欲望の火が灯り続ける限り、それに終わりはない。たとえそれがケンカやのの知り合いという形式をとったとしても…。



視線が会わない相手を見つめているとき、僕らの視線ははからずとも「欲求的な視線」になっている。視覚に著しく偏重している現代文化において、テレビをはじめとするモニタから微笑みかけるタレントに対してにしろアニメキャラクターに対してにしろ、僕らはそれを見るたびいちいちどぎまぎしない。その多くは、この欲求的な視線によって消費されているといっても過言ではない。それらメディア体験と同じように、相手からの「見返し」がない限りにおいて、見る主体の立場は守られている。


一方、すぐそこにいる相手と顔と顔をつきあわせて対峙するとき、例えそれが敵対的な対峙でなくとも、なぜにそれがストレスの伴うものかというと、それは主体の立場が安全圏にないということにつきる。
相手の表情の機微から、おのずとこちらに対する何らかの感情を読み取ってしまう。しかしそこで終わりではない。その読み取った感情から沸き立つこちらの感情が、今度はこちらの表情にフィードバックされる。さらにその顔の表情を見た相手は・・・。欲望について説明したが、この顔と顔を合わせて他者と対峙するということは、コミュニケーションの無限回廊を歩むことを意味する。自分だけ定点で安住することは許されないのだ。


僕らが一方的に眺めていた他者と視線が会ったときにすかさず逸らしてしまう理由とは、おそらく欲求的な視線のレベルから、意図せずこの欲望的な視線に接続してしまったことによるのではないだろうか。欲求のままに物として相手を眺めていたこちら側には、無限のコミュニケーションに放り込まれる準備と覚悟が足りてなかったのだ。だから、鷲田さんのいうところの退去不可能な「磁力圏」に引き入れられかけた刹那、そこから逃げ出してしまう。そして、そのとき生まれる「やましさ」というのは、換言すれば、相手を「もの」として見てしまっていたということへの感情なのかもしれない。



ところで最近、めちゃくちゃ時期を外してしまったがようやく、ヱヴァンゲリヲン新劇場版の「序」を見た。
僕は前々からこのシリーズのアンチというよりも、これがそこまで持て囃されているという状況の方に違和感があった。アニメーションの技術論においては詳しくはわからない。ただ一つ思うことは、リアルタイムで放映され流行った当初からよく言われていたあの謎多き「使徒」の存在についてだ。


友達で当時、「使徒」の目的も不明で、指揮系統のないその設定が「斬新」だということを言っていたのがいた。どんなアニメでも、ふつうは敵が悪行をするのにも世界征服だのなんらかの大儀があってしかるべきはずなのに、エヴァに関してはそれが最後までよくわからないんだ、と。


たしかにそれは、物語論のレベルでは「斬新」なのかもしれないが、「視線」のレベルにおいてははたしてどうだろうか。


使徒というのは、あるものは幾何学的な形状をしていてまるで無機物のようですらあり、またあるものは四肢に該当するものがついていたとしても頭部は能面のようなで、実は「顔」とそこに表出するはずの「表情」というのは、総じてなきに等しい。このことにより、使徒という相手からは戦闘への「逡巡」が見えない。相手の「逡巡」が見えなくなるということは、同時にこちら側の相手に対して負う逡巡という名の負荷もなくなることを意味する。



世界のあらゆるレベルの紛争が、解決しないでこんがらがっていくには、一方だけに「理」があるからではない。もし一方にだけ「理」があるなら、それは早期に解決する事案だろう。多くの戦いが解決しないのは、こちら側に「理」があるだけでなく、あちら側にも「理」があるからだろう。
その点、エヴァとたびたび対比されるガンダムシリーズは、「欲望」的だ。こちらに戦争の大儀があるのと同じように、あちらにも大儀があり、そこに葛藤が生まれざるを得ない。


一方エヴァにおいて、シンジの葛藤というのは「顔」のある敵との葛藤ではない。唯一、カヲルというシンジと精神的交流をもつこととなる人型をした「使徒」が登場し、その死が戦うことそのものへの疑問をシンジに投げかけることになるが、それはあくまで傍流の問題に過ぎない。
彼を悩ませるのは常に、理不尽な要求を突きつけ続ける父親をはじめとする味方側との軋轢でしかない。それはいわば「お家騒動」だ。例えるならシンジは、父親に駆除しろといわれた家中の「害虫」を命令どおり駆除するかどうかに葛藤しているだけだ。家を侵入した「害虫」にあるかもしれない大儀にわざわざ思い巡らすバカはいない。それと同じように、使徒はシンジにとって、欲望を誘発させる「他者」にはなり得ないのだ。


繰り返すが、僕らの「戦い」を困難に陥れる真の原因は、相手の「顔」を知り、相手の「表情」を知り、相手にも同じように「絶対に負けられない」理由があるということを、知ってしまった事実そのものだ。もっとも、こんなアニメの見方は古いのかもしれないが。


ただ、それにしても新劇場版のラミエルのあの感じは見ていて気持ちよかったなー。