いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

なぜ「現在」は常に不感症か?

つい先日、社会調査もかねて某千葉の某ディズニーリゾートにて、某マイケル・ジャクソンが主演して、現在復活中の某キャプテンEOなるアトラクションに乗ってきた。
こちとら、彼が死のうが死後にドキュメンタリ映画がどれだけ流行ろうが、どうもピンと来なくて流れていく情報だけを表層的に消費していたという不届き者ながら、大スクリーンでの、ソニックブームを起こしそうな切れのある腰フリと首の動きをはじめとする彼のステップには、鑑賞後に「かっちょええがな」と思わざるを得なかったのである。



このマイケル・ジャクソンについてもそうなのだが、ビートルズ、あるいは映画『スターウォーズ』なんかについても言えるだろう。どれも、全世界的に熱狂的な支持者を得ながらも、その層の世代的な上限と下限が規定されているように思える。マイケル・ジャクソンにしろビートルズにしろ、スターウォーズにしろ、全世代にあまねく支持されているというより、ある世代からの集中的な支持を受けているという印象が強いのだ。

最初僕はこのことについて、大衆の熱狂をもたらした対象の「内在的要因」というものを考えてみた。要は、その対象そのものの魅力を、だ。


だが結果的にそれはわからなかった。三者ともに、保存技術の発達した現代においては十二分に「リプレイ」が可能になっていて現にどれも「追体験」してみたのだけれど、全世界的熱狂を巻き起こしたそれらの中に、「そこまでの」熱狂を生み出した「内在的理由」が僕にはどうしても見いだせない。


そしてあるとき思いついた。結局その熱狂とは、熱狂する側が対象と共有した「同時代性」に多分に依拠したものなのではないか、と。
だがそれは単に物心ついたときに流行った、という程度の意味ではない。どういうことか。



ビートルズにしろマイケル・ジャクソンにしろスターウォーズにしろ、それに熱狂できない後続世代というのは、彼らが活躍した時期にまだ生まれていなかった世代に等しい。いや、厳密に言えば、彼らが活躍するまっただ中の時期にこの世に生を受けていても、実は「間に合わない」。


というのも、これらの世代のファンたちの「同時代的熱狂」というのは、つまり彼らがすでに成し遂げたイノベーションの以後のみならず、「以前」をも知っておかなければ感じ取れない種類のものだからだ。


ビートルズにもマイケル・ジャクソンにもスターウォーズにも共通するのは、その分野においての革新的発明を残したということだ。この革新的発明について考えるときに重要なのは、それ以後に続く影響について吟味することだと考える人はもちろん多いだろうが、同時に、「それ以前にはなくてその到来によって存在しなくなったもの」、つまり「After」に対する「Before」なのだ。

同時代的熱狂の担い手たるファンというのは自身が多感な時期に、既存の状況を根底から覆すようなイノベーションによって、「Before」」から「After」に切り替わる瞬間を眼前にで拝んだ世代に他ならないのだ。



僕も含め、「それ以後」の世代がなぜ常にこのイノベーションについて鈍磨なのかというと、イノベーションがすでに賞味期限を迎えて失効したからではない。もちろんそういう場合もあるだろうが、その多くはむしろ、彼らがたどり着く前に成し遂げられたその成果が、あまりに日常的に馴染みすぎ、彼らに血肉化されすぎてしまったからにすぎない。

そんな僕ら後続世代に、ビートルズやマイケルやスターウォーズの「すごさ」が、伝わるわけがない。それは、「ビートルズの存在しないロック史」、「マイケルの存在しないポップス史」、「スターウォーズの存在しないSF映画史」が、もはや「想像を絶する」のと同じように。



日本でいうと、このことは「吉本隆明」という人物についていえる。かの思想家を尊敬しているという著名人は多い。コピーライターの糸井重里がそうだし、上野千鶴子も著書でそう明かしている。内田樹もそうだ。団塊の世代として共通する彼らが、なぜに吉本に「ハマった」のか。それは後続の僕らにはいまいちわかりにくい。

もちろん吉本自身の著作や、彼の業績や思想的核心を記述して「どうだ、吉本すげーだろ」と言祝ぐ吉本フォロワーの著作は何冊か読んだのだが、いまいちなぜに彼らが吉本に「そこまで」熱狂したのかというのがわからない。

そんななか、仏文学者で「吉本主義者」と自称する鹿島茂の著作を最近手に取った。新書で400ページとバカみたいに長ったらしいが、その内包する「批評性」においてはこの手の本では群を抜いて高かった。というのも、彼の著作は「吉本はすごさ」ではなく、「なぜ我々(団塊の世代)は「吉本はすごい」と思ったのか」と、問いの次数が一段高くなっていたからだ。

そこには、ここまで書いてきたように、吉本登場以前と以後で見える「景色」の違いがあったということは言うまでもない。春の桜満開の景色はそれ自体でも十分鑑賞に堪えうるが、それ以前の極寒の冬に広がっていたはずの積雪にしなる花なき枝の風景を思い知っていたら、その美しさはいっそう増すことだろう。同様に、以前と以後の境界線を自らの足で踏み越えた者たちにしかわからないことがあるのだ。



あらゆる「過去」が保存されデータベース化される現代において、後続世代は先行世代が体験したあらゆるものを、多くの場合当時より良質な形にて「リプレイ」として体験できるので、比較的に「得な世代」だと思われがちだが、そうともいえない。

「現在」はすでに常に、多くのイノベーションについて「不感症」になっていくものなのだ。もうすでに多くのそれが開発され「以前」が領域から駆逐されていった以上、不感症になる確率は、年々高まっているということでもある。そして何よりも、「以前」と「以後」をその足で跨いで「同時代的熱狂」を勝ち得て幸福そうな笑みを浮かべている先行世代の住人たちは、理屈としてはちゃくちゃくと増え続けている。
医学の領域においての「イノベーション」によってもたらされた、人類の長寿によって。