いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

無害ゆえに無敵、でも不快!な「やれやれ」的現代の主体

ここ最近、サッカー日本代表が勝てば話の種でもしぼり取ろうかと選手の親にまで追い込みをかけたり、デブはこの世の悪だと言わんばかりに相撲協会を叩きまったりするマスコミ。持ち上げるやつは一斉に持ち上げて、たたきのめすやつは一斉にたたきのめすような横並びの主要民放5社どこも一緒の内容の番組に嫌気がさしはじめている僕が、キュート9ちゃんの放つ誘惑にうち勝つことは難しい。TokyoMXの魅力にだ。
最近はだから、平日の夕方ごろに家にいたらもれなくテレビは「5時に夢中!」なんだけれど、今日の午前にそんなMXで普段あまりタイミングが合わずに視そびれていた西部邁ゼミナールを視た。ゲストは文芸評論家の富岡幸一郎、そしてテーマは「村上春樹現象にみる日本人の空虚」。ワクワクするじゃないか。



タイトルどおり全編にわたり、昨年大ベストセラーになった『1Q84』シリーズによって未だ根強い人気を保持していることを証明したかの大作家についての、批判的鼎談(あとレギュラーの秋山祐徳太子さんも一応参加)。番組は、以前から批判している西部氏と、今回の「1Q84」を特に酷評する富岡氏の両批判派がしゃべって祐徳太子さんが聞き耳をたてるといった具合に進行していった。


いろいろな議論はあったが両氏の批判の大本は、言ってみれば村上春樹への「古典的」な批判だった。つまり、この小説の舞台がなにも80年代の日本でなくても別に成立しているということが明瞭に示す、その地域性と歴史性の欠如、そして西部氏曰く「ロボット」のような登場人物たちの内面の空虚。そこらへんだ。




ところで、それよりも僕の興味を惹いたのは、冒頭で披露したエピソードだ。例の東大事件でやめたあと氏が、『ノルウェイの森』をためしに読んでみようと思ったときの話である。氏曰く、「5ページしか読めなかった」らしく、読書家というその奥さんもわずか10ページで根をあげたという。

あまり言われないけれど実は、彼のように村上春樹が「読めない」という読者層、まったく文体を受けつけないという読者層も少なからずいるんじゃないだろうか。僕も村上春樹についてはそうだということをある人から聞いたことがある。これはおそらく世代的な問題だ。ある年代より上の層、たぶん既存の近代小説に触れてきた層は、村上春樹が読めない。耐えられない。我慢ならないのだ。

「読めない」というと、ふつうに考えれば単なる「批評の放棄」のように思えるが、これがある年代以上に兆候的に表れるということは、むしろそこから出発できる批評もあるんじゃないだろうか。読めない、それ以上ページを追えないというのは、おそらく小説の構造的な問題ではない。きっと、あの全編を覆うホールデン君的文体。そう、「やれやれ」の「僕」にこそその原因があるのだ。



村上春樹の小説群が人をひきつけるのは、その神話的な小説の構造と文体という二つの要因であると、僕は思っている。そして、構造派と文体派のこの二つは、村上春樹読者の年長世代と若年世代として積み重なっているんじゃないかとも勘ぐっている。つまり上の世代、村上春樹と同年代から下は40代くらいまでの人々は、小説の筋や構造に惹かれる。彼らは、村上文学に隠された謎だとか、小説の構造に目を向ける傾向があって、実際に評論家の人の多くは著作を著して各々の謎解きを披露していたりしている(もっとも、僕個人的には大塚英志に「村上春樹の小説は謎本を誘発させる」と指摘された時点で、それらの仕事の多くがその批評的価値を致命的に失ったと思っているけれど)。

だが、僕がこれまで話を聞いてきた感触では、おそらく若い世代になればなるほど、村上の小説の構造がどうだとか、あの象徴の意味だとかなんだはどうでもよくなっていく。それよりも、あの「僕」文体を追うことで「僕」に感情移入することに重点が移っていっているような気がするわけだ。





前にも書いたけれど、なぜに若者が村上の「僕」に惹かれるのかというと、そこに「少数派の美学」とでもいえるものがあるからだ。社会から一歩距離を置いたところにいて、社会の多勢を占める価値観に上手くなじめずにいる「僕」。ひょんなことから彼は隣の垣根に飛び越え異界にトリップし、ちょっとばかり不思議な体験をして、世界を救っちゃうところまではいかないまでも無事に戻ってきての最後の一言が、「やれやれ」(前回書いた『アンガスとアヒル』ですね)。この村上春樹の「僕」という「やれやれ的主体」が、結局そういった自意識の半透明のコーティング越しにしか世界を見ておらず、本当は世界と接していないということは、ずっと昔に柄谷行人によって批判されている。


そうやって群れから外れること、大衆からはずれて孤独感に浸ることをシチュエーションとして消費している読者が、若い世代ほど男女を問わず多いわけだ。


でも小説がバカ売れしたことでもわかるが、ハルキストは、そして彼らが支持する自意識も今やはっきりいってまったくの多数派だ。
どれくらい主流派かというと例えば、僕の卒業した後輩曰わく、「飲み会で酔った勢いでチンコ出すようなヤツ」がいて、その彼が愛読書に「村上春樹」と答えたんだそうだ。おそらく事実なのだろうけれども、このエピソードは、自分が「飲み会で酔った勢いでチンコ出さないヤツ」だと自覚し、「飲み会で酔った勢いでチンコ出すようなヤツ」とは別の価値観を持ち、小説も別のものを読んでいるだろうと確信していた方々には大きなショックを与えるんじゃないだろうか。自宅でパスタをゆでてサンドイッチを作るどころではない。ワ×ミの座敷席で自分の竿を御開陳しているようなヤツだってちゃんと「やれやれ」しているわけだ。


別に僕は「飲み会で酔った勢いでチンコ出すようなヤツ」は村上春樹を読むなといいたいわけではない。そうではなくて、「飲み会で酔った勢いでチンコ出すようなヤツ」も「飲み会で酔った勢いでチンコ出さないヤツ」もみな囲い込む。そういった距離のありそうな二つの属性を取り囲むほど、広大な面積のクラスターが村上春樹の小説を現に楽しんでいるということであって、何もそれは日本の少数派ではないということだ。
改めて指摘するまでもないが、少数派だからこその「やれやれ」であって、その役は基本的に一人でいいわけである。ここには、全体主義批判を全体主義的に行うというのに似たパラドックスがある。





そういった村上春樹の文体なのだけれど、批評とまではいえないまでも、その文体および「やれやれ的主体」に対してかつてないほどにラディカルな批判を加えたと思うのが、例のpha氏が開発した「村上春樹風に語るスレジェネレーター」だ。文章として何か理屈立てるよりも、これほどまでにダメージの残すおちょくり方はないんじゃないろうか。


ところが、だ。ふつうこれに対して、村上のその文体に耽溺する輩というのは怒らなきゃいけないと思うわけだ。おい、「僕」たちの「やれやれ」をバカにするなと。だがそうはならない。いや下手すれば、ヘビーリーダーのクセしてジェネレーターを楽しんでるというヤツだっているかもしれない。それはなぜか。

それは、なにも「やれやれ的主体」であることの不徹底によるもの、「やれやれ的主体」への裏切り行為なぞではない。むしろ、このやれやれ的主体としての振る舞うことの徹底の所産なのである。



そもそも「やれやれ」というのは、対象への呆れ、嘲笑なのだけれど、基本的にそれは「カウンター」にすぎない。まず対象があっての「やれやれ」。「やれやれ」し甲斐のある人や物があってこその初めて生まれる「やれやれ」なのだ。


では、常日頃から何でもかんでも「やれやれ」言ってると、どうなるか。そのうち、自分の取り得る立場、いわば「やれやれ言われない立場」なんてとりようがなくなるわけだ。何にでも「やれやれ」いってると。

本当なら我らが村上春樹をおちょくられてんなら、「ちょいまてコラ」と憤ってもいいようなものの、「ちょいまてコラ」という立場だって「やれやれ」の対象になりかねない。だから結局、「やれやれ的主体」を徹底していった先では、村上文学の「僕」にならった「やれやれ」言っておきながらも、一方で村上春樹とその文体に対しても「やれやれ」という態度がとることになっていく。


繰り返すがこれこそ、村上春樹的、空虚なやれやれ的主体の徹底なのだ。


村上作品にて「僕」はたいてい世界を救えない。たとえ敵の目的を阻止できたとしても、完全な救済は「やれやれ」では不可能なのだ。それは彼から「やれやれ的主体」を受け継いだ読者の心性にもいえることだ。「やれやれ」は基本無害なのだ。

だが、無害ゆえに無敵、という考え方もできる。
いやそれだけじゃない。無害ゆえに無敵、そんでもって聞かされるこっち側は不快なのだ。