いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

恋愛できない人がつらいのは恋愛ができないからではない

遅ればせながら、最近こんな新書を読んだ。


セックス格差社会 恋愛貧者 結婚難民はなぜ増えるのか?  (宝島社新書)

セックス格差社会 恋愛貧者 結婚難民はなぜ増えるのか? (宝島社新書)


各章様々な「格差」を論じているのだが、疑問に思った箇所がある。
それは第一章冒頭、著者によれば結婚に際して女性が男性に希望する年収と、実際にそれに見合った年収を稼ぐことのできる男性の数にギャップが生まれている、というのだ。

 

 総務省の『就業構造基本調査(07年)』によると、有業で年収が400万円未満の独身男性の数は、254万4900人となっている。この人たちは、独身女性の収入最低ラインをクリアしていないために結婚できない。
 女性については総務省国勢調査(05年)』によると、25歳から34歳の未婚女性の数は、387万1302人となっている。その一方、年収が400万円を超える独身男性は、158万7000人にとどまっている(前述の総務省『就業構造基本調査(07年)』による)。すると、228万4302人(=387万1302人−158万7000人)の女性が結婚できずに余ってしまう。
 つまり、254万4900人の独身男性は、年収の最低条件をクリアできないために結婚できず、一方で228万4302人の独身女性は、結婚相手に年収の最低条件を設定しているために結婚できないということだ。


※太線原文ママ
門倉貴史『セックス格差社会』pp24−25

この前の箇所で、「年収が400万円に届かない独身男性を恋愛や結婚の対象外と考えている」女性が84%、逆に言えば届いていない男性も「対象外ではないと考えている」女性がゼロじゃないのだから、上の計算では少なくとも女性の母数をそのままで計算するのはおかしいんじゃないかとは思うんだが、そういう小さいことを指摘したいのではない。
むしろ僕は、「=387万1302人−158万7000人」と簡単にやり過ごされているが、その「引き算」にこそ疑問を持つわけだ。
この引き算には、ある一つの条件が含意されている。それは、「主体は変容しない」という条件だ。


こんな大規模な引き算が現実に起こるのは、むしろ超弩級に希なケースでしかない。それがどういうケースかというと、同じ部屋に、相手の年収の希望額を書いたプレートを首からさげた387万1302人の女性と、首から自分の年収の書かれたプレートをさげたリッチな男性158万7000人そして、まったく相手にされない年収400万円以下の男性254万4900人が一同に会した、という場面だ。合同結婚式なんて規模じゃない。そんな超集団お見合いで全員が一度に会ったというなら、ここで引き算で計算するのも納得できる。


だが実際は、そんなわけないだろう。
男も女も、大きな社会の中にバラバラに散らばって生まれ育ち、学校や会社、はたまた友達の紹介、ナンパ、合コン、出会い系サイト等々の社会の営みの諸々のなかで、たまたま出会うのだ。もちろんお互い、相手の年収や相手の希望する年収など知るよしもなく。


僕が言いたいのは、「年収が400万を上回る人でないとイヤ!と答えた時の私」と「ある人を好きになってしまった時の私」は、変容しているということなのだ。好きになってからアプローチしてみて、実は400万円以下だったとき、それだけであきらめるだろうか。そこは妥協する人だっているんじゃないだろうか。
もちろん年収だけを頼りに相手を選んでいるという人もゼロではないだろうが、少なくとも全員が全員それだけを絶対的条件にしているわけではないはずなわけだ。


だから、ここで数と数とで引き算をしたって、その答えは何の意味も持たない。



僕がここで何を言いたいかというと、恋愛はその不可能性を論難するより、可能性を否定する方がよっぽど困難だということだ。


社会学者の大澤真幸に『恋愛の不可能性について』というオシャレなタイトルの本がある。このタイトルは一種のレトリックだ。この本で著者は、クリプキという人の固有名についての議論を応用しながら、人は自分が恋人のことをなぜ好きなのかというその「好きな理由」をつかめない、という事実を論じている。いわば、人は自分の恋愛の仕組みを完全に自分のものにできないという現象を「不可能性」と呼んでいるだけであって、「恋愛」はやはりできるし、実際街には恋愛している人で溢れかえっている。


だが「なぜ自分は相手のことが好きなのか」、なぜ相手は自分の欲望の炎を熱くたぎらせるのか、この疑問に答えられる人はいるだろうか。
精神分析、というかラカンはこの謎を「対象A」という概念で説明する。なぜ人が他人を愛するかというと、その相手がその人にとっての「対象A」を備えているからだ。では、なぜ人々は他者の中の対象Aを欲望するのかというと、それが対象Aだからだ。対象Aの定義とは欲望の「原因であり結果である」。もろ同語反復だが、逆に言えばそういった概念を想定するくらいしか精神分析にもできなかった、ということも言える。


自分が誰のことを好きになるかなんて、決められやしない。そして好きになったら、好きになる前には戻れない。この「すでに、つねに」の状況を精神分析では「事後性」と呼ぶ。一方で、相手に「自分を好きにさせる」ということができる恋愛の猛者みたいな人もいる。精神分析家のとりあつかう転移というのも、その一種といえるが、これは考えて見れば恐ろしいことではないだろうか。
「好きになる」という語の能動的な趣とは裏腹に、好きとか恋愛というのは、実はきわめて不自由な概念なわけだ。
しかしそれが、僕らが“自由”恋愛と高らかに叫んでいるものの正体なのだ。


そして、なぜ好きなったかが説明できない以上、絶対に好かれないということも説明できない。証明できないのだ。恋愛できないという人々が、なぜつらいのか。それは単に他の人ができている恋愛を自分ができないから、ではない。むしろ自分には恋愛が不可能だと証明されたならつらいなりにもまだマシで、その根源には自分の恋愛の「不可能性の証明が不可能」だからこそのつらさがあるわけだ。



三島由紀夫に『金閣寺』という小説がある。京都の金閣寺の美しさに魅せられた青年が、最終的にそれに放火してしまうまでの顛末を書いた、実話を元にした小説だ。
その中で、主人公の「私」が大学時代に知り合う友人に、厭世的でひどく捻くれた性格の柏木という人物がいる。彼は先天的な「強度の内飜足」(ないほんそく)という足が湾曲する病気をもつ障害者だ。吃音をもつ「私」は彼に親近感をもち彼に近づくが、鋭い柏木にはそのことをすぐに見破られる。


しかしそれでも「私」にいくぶんか気を許した彼は、長い独白を「私」に始める。


彼は自分が「絶対に女から愛されないことを信じていた」のだという。足の障害があるからだ。その障害において女性から「愛されないという確信」が、彼の障害と彼に存在意義を付与していたのだ。彼はだから、「商売女」も買わない。障害者も何者も平等に扱う「商売女」を前にしては、自分の存在がなくなってしまうと考えるのだ。


そんな彼に過去のある日、「身の上に、信ずべからざる事件が起」こる。「神戸の女学校をでている裕福な娘」が彼に愛を告白をしたというのだ。柏木は彼女に対して自分は「愛していない」と、その求愛を拒む。それでも彼女は引き下がらない。むしろますます彼を追いかけてくる。


しかし、彼女が彼の前で「体を投げ出」したとき、彼が「不能」だったことによって彼が「愛していないこと」が証明され、ようやく彼女は彼の元から去っていったのだという。
一方彼は、このできごとで狼狽する。それは彼女の前で不能だったからではない。むしろ、狼狽したのは不能になった理由、すなわち自分の内飜足が彼女の「美しい足に触れるのを思って、不能になってしまった」ということにこそ原因があったのだ。

 何故なら、そのとき、俺には不真面目な喜びが生まれていて、欲望により、その欲望の遂行によって、愛の不可能を実証しようとしていたのだが、肉体がこれを裏切り、俺の精神でやろうとしていたことを、肉体が演じてしまったからだ。俺は矛盾に逢着した。俗悪な表現を恐れずに言えば、俺は愛されないという確信で以て、愛を夢見ていたことになるのだが、最後の段階では、欲望を愛の代理に置いて安心していた。しかるに欲望そのものが、俺の存在の条件の忘却を要求し、俺の愛の唯一の関門であるところの愛されないという確信を放棄することを要求しているのが、わかってしまったのである。


三島由紀夫金閣寺』p125


彼は誰にも「愛されないという確信」があるからこそ、愛を夢を見れていたという。現代風にいえば、障害があることで恋愛市場から閉め出されたことが、彼と世界との間に絶対的な「不和」があるという彼の精神的基盤になっている状況分析の正しさを、逆説的に証明していたのだ。そして、そうした証明が完成した後で、彼は恋愛という営みのある「世界」の外部から、安心して恋愛を夢見れる。
だが、彼は実は自分が「愛されないという確信を放棄することを要求していた」ことを知る。彼は恋愛の可能性を葬りたかったにも関わらず、まさに自分の中に相手の求愛に答えたいという欲望を、発見してしまったわけだ。


柏木の「不能」とは、恋愛の不可能性を証明する途上の挫折なのだ。



あるいは、先月単行本にて最終巻をむかえたマンガ『モテキ』を例に取ってみよう。


モテキ (1) (イブニングKC)

モテキ (1) (イブニングKC)


読者の中には疑問に思っていた人もいたんじゃないだろうか。モテ期(人生に三回だけ巡ってくるというモテモテの時期)という俗語をタイトルに持ちながら、この作品においてそのモテ期の恩恵に与っているはずの主人公の藤本は、ぜんぜんまったくうんともすんとも、幸せそうでない。むしろ、いつもいろいろなシチュエーションに巻き込まれ、苦痛にまみれていたではないか、と。

それは、モテ期の到来によって、彼にとっての旧来の「言い訳が効かなくなった」と考えるべきではないだろうか。それまでモテないというある種の「確信」のもと、すべてをやり過ごしていた彼だったが、モテキになったとたん、その確信は一時的ながら解除される。まるでスーパーマリオがスターをとったときのように。


もちろんその「無敵状態」に最初は彼もはしゃいでいたのだが、次第に彼は苦悩に満ちていく。彼はモテ期の力で決定的な場面に遭遇しながらも、失敗を繰り返すのだ。女の子からモテる状態でありながら結果が出せない、そのことで逆説的に自分の底知れぬ恋愛能力の無さを痛感して、彼はヘこんでいくわけだ。
だから、「モテキ」というタイトルで描かれたこのマンガは、おそろしく捻くれた形で「非モテ」だとかなんだとか自分を定義している人を、痛罵している、とも読めるわけだ。

それは「※ただしイケメンに限る」にも言えることで、「※ただしイケメンに限る」のレッテルを貼ることにいくばくかの悲哀はあるものの(そりゃそうだ)、そうやって自分を蚊帳の外に置くことで、それ以上に利得を得ているとも考えられる。精神分析的に言えば、それは一種の「疾病利得」だ。



例えば、「あの山にはモンシロチョウがいる」という命題と、「あの山にはモンシロチョウがまったくいない」という命題。どちらが否定しやすいだろうか。もちろん、後者に決まってる。前者が山をしらみつぶしに探さないといけないのに対して、後者はその山でわずか一匹でも見つかればいいのだから。
「世の中にあなたを愛してくれる人がいる」という命題と、「世の中にあなたを愛してくれる人はいっさいいない」という命題。それについても同様だ。繰り返すが、だからつらいのだ。過酷なのだ。


もし、もしである。自分には恋愛が不可能であることが客観的に証明できた人が一人でもいるならば、おそらく周りの人もそういう話題を口にしなくなるし、ひいては恋愛資本主義が大手を振って闊歩する現代社会においても、「恋愛とかそういうことをもてはやすのは差別につながるのではないか?」という議論が生まれるかもしれない。
だが、できないことの証明が不可能な今のところは、恋愛できない者たちの「恋愛の話やめれ」という怨念は現実を動かさない。恋愛賛美の歌は流れ続け、できない者たちを苦悩させる。


ちなみに、相手との「フィーリング」をめぐっての営みである以上、就活にも同じことがいえる。就活が決まらない限り、その人の怠惰などの欠点が指摘され、「こいつ社会人ムリじゃね?」という不可能性は議論にならない。「就職できる企業がない人なんていない」と思われているからだ。
もうこうなったら、就職よりは婚活の方が簡単そうだから、永久就職めざしちゃおうかしら♪