いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

議論をメタ化する人

こんな太平の世でも、時に人と意見が合わなかったり、話がかみ合わなかったりすることがあります。人間誰とも意見が一致するわけではなく、これは仕方がない。そういうときに「にゃろめ!」と言葉尻が鋭くなったり手を出すような傍若無人でない僕は、本当は腸煮えくりかえっていてもスマートかつクールに応答するのであります。


ただ、議論が徐々に熱を帯びてきて、いよいよにっちもさっちもいかなくなるぞーの、その手前くらいでふと、相手が口走るわけです、あのセリフを。

「ちょっと待ってっ、もう少し冷静になろうよ!」と。

ふいに、これをポンと言われたら、ついつい僕は、「やられた」と思ってしまうとです。

この「ちょっと待ってっ、もう少し冷静になろうよ!」というセリフは、議論の相手から発せられているようで、実はまた別の人間に発せられています。それはメタ議論、要するに「議論の議論」をしている人物から発せられたもの。つまり、相手はこのセリフを発した今その瞬間、「一人二役」になったのです。


□□□



なんで相手は、こういうことをするのか。実際に僕が頭に血が上った状態で、それを沈めるために発せられた親切な一言、の場合もありますが、相手は今の今やりあっている論敵です。もちろんそこには、議論上での「戦略的な効果」が隠されていると考えられます。

では、それはいったいどんな効果なのか。一言で言えば、「もう少し冷静になろうよ!」この一言を発している行為それ自体がパフォーマンスとして作用して、「自分はもう一つ上の高見からこの論戦を冷静かつ的確に眺めている」ということを相手に知らしめ、「心理的な優位」に立てるわけです。


プロボクシングで考えてみましょう。リング上にいる選手は、もちろん肉体的強者です。しかし、彼らは「何でもあり」で戦っているわけではない。守るべきルールがある。ということは、本当に強いのは一体誰なのか。それは戦っている二人でなく、両者の間に入って試合を裁いているレフェリーに他なりません。

もちろん実際の彼らの多くは適切かつ公正なレフェリングをしているのでしょう。しかし、もし彼らがどちらかの選手に肩入れして勝たせようと企んでいたら、けっこう簡単にできることだと思います。もちろんそれは、用意周到に場所を選んで、相手選手に「注意」を与えるという行為を使って。そうなると、本当に「最強」なのは誰か。それは、試合における両者の印象を決めるレフェリーに他なりません。リング上の試合内容でどんなに強くても、ルールブックとして見守るレフェリーには逆らえないのです。



□□□



もうおわかりでしょう。議論で「冷静になろうよっ!」とメタ視点から口を出す人間こそ、インチキながらも議論における「レフェリー」になれるわけです。そしてそのインチキレフェリーの役を買って出て、レフェリーとしての言葉を発した側がその瞬間、当然心理的な優勢になれる。


僕自身、このメタ議論の戦法を使っているのかというと、あまり使いたくはありません。というのもこれ、はっきりいってずるい戦法でしょう。ボクシングだって、リング上で実際に戦って勝った人が強いと認められ、レフェリーの介入は最小限にとどめていた方が、健全に決まっています。

そして、これが一番の問題なんですが、このメタ議論化の戦法は実際のところ議論の内容の水準ではボロ負け気味でだって、有効に機能してしまう可能性があります。たとえ「フィニッシュブロー」に向けて相手がまくし立てているときにだって、このマジックワード「冷静になれよ!」の一言で、相手も多少は「ぽっ」となってしまいますもん。



□□□



結果、議論の内容水準ではボロ負けしていようとも、この「冷静になろうよ!」という一言による印象操作で、「勝負に負けて試合に勝つ」にまで調整できるかもしれない。これはそういう「試合巧者」の使う戦術です。そしていわずもがな、これは一種の「パフォーマンス」の戦法ですから、第三者としての議論を見守る「観衆」がいればいるほど、効果を発揮します。

ちなみにマイナーアレンジとして、「お互い冷静になろうよ!」とリング上の自分も蚊帳の外ではないよというのを暗に示して、この戦法そのものを軽くカモフラージュする技法もあります。でもどちらにせよ、レフェリーがバックにいるほうが強いに決まっています。


繰り返しですがなんかそれって、ずるいわけですよね。だから、僕が言わないように言わないようにしながら対話していると、時折相手が「冷静になろうよ!」なんか言ってきて、「冷静じゃボケぇぇ」と思ってしまう僕は、一番この術中にハマっているのかもしれません。