いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

枕もとのディスコミュニケーション 〜NHKスペシャル「命をめぐる対話」をみて〜

「閉じ込め状態」というのを知っているだろうか。発病すると体中の筋肉という筋肉が次第に動かなくなっていく筋ジストロフィーなどの難病や脳損傷の病状が進行していった先、待ち受けているのは腕や足どころか、だれでも簡単に持ち上がりそうなまぶたの筋肉すら自らでは持ち上げることのできなくなる状態だ。まさに体というびくともしない「檻」のなかに、発病前となんらかわらない意識と五感だけが閉じ込められた状況。それが文字通り、「閉じ込め状態」と呼ばれているものだ。


21日にあったNHKスペシャル「命をめぐる対話“暗闇の世界”で生きられますか」は、作家の柳田邦男が別々の地域にくらす三人の「閉じ込め状態」にいる患者をたずねるという構成をとっていた。特にその中の一人照川さんという元警察官の人は、番組終盤で柳田と“ある論点”で激しく対立する。


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僕はこの「閉じ込め状態」、そういうものがあるということだけはどこかしらで聞いていたのだけれど、今回のドキュメンタリーではじめて、それが「どういうことか」というのを強烈に知った。


僕と同様、おそらく多くの人はテレビではじめて患者を目にしたとき、「脳死状態」という言葉を思い浮かべたはず。というのもこの「閉じ込め状態」、外見的にはこん睡状態のままベットに寝かされている脳死患者とほとんど変わりないからだ。


しかし、両者の間には究極的なちがいがある。くりかえすが「閉じ込め状態」の人は精神的な疾患ではなく、そこには明瞭な、今も何かを考えている意識があるのだ。


もちろん、脳死とそれとは別物で、そもそもどちらがどうとかいうように比べられるものではない。ただ、この「閉じ込め状態」という「責め苦」には、「どんな状態に陥れたら人間は苦しみ、絶望するだろう」とまるで悪魔が考え出したような残忍さとさえいえるものがある。その上さらに、何の前触れもなくある日突然だれかが選び出され罹患する「偶発性」という名の、また別種の残忍さもあいまっているのだけれど。


患者の家族たちが彼らの枕元で話しかけている光景を見たとき、この病の苦しさというのは究極的なもどかしさ、あるいは歯がゆさなんじゃないかと思った。最愛の家族に枕元にかがまれ話しかけられているのである。顔と顔の距離でいうと、わずか数十センチでしかない。けれど彼らは生身の体を使ってはほとんど何も、応えることはできない。これは推測でしかないけれど、きっと彼らの方からもそれら一言一句になにか返答をしたいと思っているはずだ。
でもそれができない。できるのは、微細な運動能力を残す頬や眉の動き感知するセンサーを通してPCのモニタ上に映される文字を通してだけだ。もちろんそんな遠まわしで回りくどい返答なんかではなく、本当はダイレクトにいろいろ募る想いを伝えたいはずだ。
この「答えたいという気持ちがここにあるのにまったく答えられない」というもどかしさと歯がゆさが、未来永劫に続く。それは想像するだけで気が狂いそうな状態で、本当に悪魔が作った病気じゃないかろうか。


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ここ数日、例の非実在青少年の問題で表現や表現することについてよく考える。表現するということは、例えば画用紙に絵を描いたり、ブログで文章を綴ったり、ピアノで美しい旋律を奏でたり、音楽に合わせて踊ったりする「そういうもの」なんだと、僕らは日ごろ不当に表現を狭く括っていやしないだろうか。


本当はごく日常的な会話やしぐさやクセだって、立派な表現なんじゃないか。パチンコ屋でなかなか当たりがこないのにイラついて台を小突くのも「表現」だし、止めようと思ってもついつい爪を噛んでしまうクセも「表現」だし、恋人に性感帯を優しく愛撫されてビクつくのだって、いわば「表現」だ。他者がいてその他者からのアクションにリアクションを返し、それがさらに相手のリアクションを呼ぶ。そんな営み積み重ねすべてが、本源的に表現なんじゃないだろうか。


実は最近、僕のPCの調子がものすごく悪い。ようやくネットが家につながって喜んでいたのだけれど、家のPCを3年ぶりくらいにつかってみると、なぜだかおそろしく動きがとろくなっていた。僕が感じていたのも、伝えることがいろいろあるのに伝えられないということからくる、もどかしさであり歯がゆさだ。

もちろん僕の感じたそれとは比べものにならないほどずっと深く、比べものにならないほどずっと長く彼らが苦悩を抱いていることは当然だろうし、さらにいえば、それら苦悩そのものを表現する、僕だったら頭を掻きむしるとか奇声を上げるとか、そういった「苦悩に対する表現」をも剥奪されていることは、さらに苦悩を底なしに深めていく。


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問題は、それら表現の術を完全に剥奪されたとき、外界からの刺激を取り込む分厚い檻の中に明瞭なる意識だけ放り込まれたとき、その人自身にとって生とは意味を持ちうるのか?ということだ。番組中、柳田邦男と照川さんが筆談を通して静かながらも明確に対立していたのは、実はこの点だ。


照川さんに残されたほとんど唯一といっていい外界への表現方法の微細な頬の筋肉運動さえも、日に日に弱まりつつあるという。そんな彼は、「完全な“閉じ込め状態”になったら死なせてほしい。闇夜の世界では生きられない。人生を終わらせることは“栄光ある撤退”であると確信している」という要望書を家族に向けて書いているというのだ。つまり、自らを表現する術を完全に絶たれたとき、命も絶ってくれということ。それはまだ表現が許された彼にとっての、遺言状に近いものなのかもしれない。


これについて、番組にも出演したもう一人の照川さんとも交友のある患者はちがった意見であるし、柳田もそれには反対していた。
柳田は息子が25歳のときに自殺したのをきっかけに、それ以前より命について考え始めたという。そんな彼が照川さんを説得するようにいうのは、「家族のために生きて欲しい」ということ。何もできはしなくても、家の中でベットに横たわっているだけで、家族の精神的な支柱になるのだからという彼の主張はうなずける面もある。おそらくそれは、柳田がいろいろ考えた末にたどりついた考えなのだろう。


だが、そうだとしてもやはり、「閉じ込め状態」本人の今現在進行形で味わっている状態を想像すると、それは気休めというか、ある意味きれいごとのようにさえ思えてくるのは僕だけだろうか。まして、柳田邦男は作家という表現者である。表現できないことの辛さがわからないはずがないと思うのだ。僕自身、想像絶するその「想像しかできない世界」を想像した時、自殺を考えても、それは無理からぬことなんじゃないか、そんな風に考えた。


デカルト以来の頭でっかちな心身二元論は、この問題を前にもろくも崩れ去る。どんなに想像力豊かだとしても、それを外界の誰かに伝えるという望みが絶たれた時、その想像は絶望にしか生まれないのだから。