いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

NHK「激震 マスメディア 〜テレビ・新聞の未来〜」についての私見と少しばかり「テレビ」について


NHKスペシャル


NHKでは何日も前から番宣していたし、Twitterとの連動などかなりの気合の入れようが伝わってきたのだが、たまたま前日にこの番組紹介ページを見ていやな予感がしていた。ゲスト紹介欄だ。

●日本新聞協会会長   内山斉  
日本民間放送連盟会長 広瀬道貞 
ドワンゴ会長     川上量生 
●ITジャーナリスト  佐々木俊尚
学習院大学教授    遠藤薫  
●NHK副会長     今井義典 


「いやな予感」の源泉は上の内山さん、広瀬さんの二人と一番下の段の今井さんだ。ちなみにこの三人の年齢は、あわせて217歳。いや、年齢はこの際どうでもいい。しかしドワンゴ会長まで引っ張り出しておいて、受けて立つ側がこのメンツだと、そもそも話自体が通じ合わないのではないかということを危惧したのは、僕だけではないはず。


そして実際に番組は始まった。「いやな予感」はあっさり的中した。番組はVTRとスタジオでの議論にて構成されていたのだけれど、議論が全編にわたりまったく陳腐。結局、旧来のマスメディアと新たに台頭してきたインターネットメディアによる、どちらがいいわるいといった、おそらくこれまで何回もなされてきた手垢のついた対立軸の議論なのである。これは席順からしてすでに番組構成上そうなっていた推測が成り立つ。司会者を挟んで上記三人と川上、佐々木の両名が向かい合っているように座っていて(中間よりやや後者よりに遠藤氏)、両者があたかも最初から対立するように座っていた(だがこれも、後述する「裏」の放送では、放送前にまた別のある対立軸が想定されていたと明かされていた)。


ただ、陳腐なりにも議論が噛み合っていたらいい。陳腐でさらに噛み合っていないのが、おそらくこの番組への視聴者の不満のいったんだったのではないか。


しかしその「話の噛み合わなさ」は、このメンツがキャスティングされた時点で決定的だったような気がする。というのも、川上氏や佐々木氏がこの番組が論じていた(あるいは論じたかった)のが題目どおり「マスメディアの危機的状況」だったのに対して、前者三人が「マスメディアの危機的状況」という題目の番組で論じようとしていたのは、ざっくりいえば「雇用問題」だったからだ。それはいわば、テレビとテレビ局のちがいだ。両者は似ているようで、実はちがう。


これも無理はない。三人とも、あわせればおそらく何十万、下手したら何百万人もの労働者を抱える、いわば雇用主の代表みたいなもんだ。そんな彼らが、「テレビや新聞は衰退する」という議論にそうやすやすと首肯できるわけがない。今思い返してみたら、番組全体のあの重苦しいトーンも、マスメディアではなく、マスメディアを運営する企業体の目線だったわけだ。そんななか中間に位置した遠藤さんの、「情報の受けてはメディアの形がどうなろうとしったこっちゃない」という意見は、共感しえる部分が少なかったこの番組のなかで珍しく共感を得たものの一つだっただろう。


だからこの番組の最大の失敗は、キャスティングのミスマッチ。テレビ新聞の代表3人が「ミスキャスト」だったとは僕は思わない。デジタル化によって生じる雇用問題も、じつは深刻な社会問題になりつつあるからだ(『デジタル社会はなぜ生きにくいか』などを参照のこと)。しかしそれだとテーブルの向こうには雇用問題の専門家を呼べばいい話で、せっかく呼んでおいたドワンゴ会長や佐々木氏は宝の持ち腐れだ。結局両陣営どちらかの側の人選を代えるべきだったのだ(もっとも、その場合多くの人が前者3名のチェンジを要求するだろうが)。


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あとこの番組の煮え切らなかった部分を付け加えると、結局最後まで両者がヒートアップしなかったことだ。いわば「テレビ的なもの」が少なかった。視聴者が娯楽としてのテレビに求める、唯一テレビのみが提供できる「テレビ的なもの」とは、いったいなんだろうか。僕はそれが、「ハプニング待ち」の緊迫感に他ならないと思っている。


よく言われているとおり、日本の娯楽の事実上の王座が映画からテレビへと渡ったことが決定的なものとなったのは、「浅間山荘事件」の生中継だ。それは立てこもり犯と彼らを包囲する機動隊という構図の割には想像以上にずっと地味で、そのほとんどはコテージの動かない画が、何時間、何日もただずーっと映されていただけだったという。だがそれが、作り物である映画に勝った。つまり、テレビはその原初からして、視聴者が「ハプニング(≒放送事故)待ち」を希求するメディアだったわけだ。


それを強く意識したのは、実はこのNHK「激震 マスメディア 〜テレビ・新聞の未来〜」という「表」の放送の30分前から、USTREAM上で配信されていた「激笑 裏マスメディア〜テレビ・新聞の過去〜」を眺めていたときだ。ジャーナリストの上杉隆氏や堀江貴文氏、「tudaる」の津田氏その他の「豪華出演陣」が集って、「表」ちゃちゃいれながら飲み会をするという内容だったが、おそらく多くの人がこの「裏番組」の存在も知っていて、「同時上映」していた人も多かったのではないだろうか。ホリエモンのフジテレビ秘話とかいろいろ「こぼれ話」もあったし、議論の水準にしても格段に「表」を上回っていた箇所はあったと思うのだけれど、生放送としては、テレビのその「テレビ的なもの」が介在していなかったのだ。


これはニコ生にもいえることだが、これらネット上の「生放送」がテレビの「パロディー」であることは言うまでもないものの、そんなテレビの「パロディー」であるネットにおいてのそれらがどうしてもそれだけは手に入らないものが、それが僕の定義する「テレビ的なもの」であり、「ハプニング待ち」の緊張感なのだ。


どういうことかというと、結局ネットでの「生放送」は、放送コードなどの守るべき規範がないために「不適切発言」の類があったとしても、それはせいぜい乾いた笑いによって受け止められるかして、スルーされて終わりなのだ。「小ヅラさん」しかり、某国王子の娘二人についての「論評」など、的を射すぎていて、いや的を射すぎているから地上波ではまず無理な発言も数々あった。だが、その字義通りのこと以上はネット上の放送では起こりえないのだ。


この「ハプニング待ち」の心性を満足させるハプニングは、必ずしも画面上で起こったことの重大さだけによって決まるわけではない。それだけではなく、その後にきっとはさまれるであろう「お詫び」によって、事後的に定義されるのだ。事後にしばらくたってからスタジオで誰かがあわただしく駆け回っている音がマイクから伝わり、キャスターやアナウンサーがひきつった顔しながら「ここでお詫びです」と切り出したその瞬間、ハプニングはハプニングとして誕生する。
それはニコ生にもいえる。その30分間ほとんどがむしろ「放送事故」だろうという話だが、そんな「放送事故」を「放送事故」と受け取らない生主とその視聴者の住まう空間は、「まったり」を提供するコンテンツとしてはありなのかもしれないが、そこに「テレビ的なもの」はまるで介在しない。


これは、「やはり映像放映は規律や道徳にしばられていたほうがいい」という話ではない。そうではなくて、テレビの中の人々が放送上の規律や道徳に縛られていて、万が一それらに抵触した際に彼ら/彼女らが示す身体反応、テレビマンとしての生理現象の「痙攣」こそが、逆説的ながらテレビというものがくりだす唯一無二の「テレビ的なもの」だと思うのだ。


だから僕はテレビは「衰退」しないと思う。少なくとも、笑っていいとも!!に定期的にヤバイ素人が出たり、朝まで生テレビとかでときたま田原誠一郎が「不適切発言」をしているうちは・・・。