いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「泣き寝入りする自由」もないこんな世の中じゃ……POISON!!


このセカイには二種類の人間がいる。
外食した際に注文したものがなかなか出てこなかったときなどに、ウェイターやウェイトレスの子をつかまえて「遅いよ早くして」ときっぱり告げることのできる人と、どんなに腹の虫が泣きわめこうがこれは今から巡り会うことになるごちそうに対して自分がより激しい舌鼓の8ビートを打つために神(もしくはなまけた料理長)が与えし至福の時間なのだと多分な合理化をはらんだ解釈とともに黙って堪え忍ぶ人、その二種類だ。


はっきり言って僕は後者のくちだ。しかも重傷のそれで、注文したものとまったく別のがきても、「あのーですね、これーはーえーと…、僕の頼んだのとちがったりしてたりしなかったりするという話を聞いたのはどこだったけかな?」という具合で、こちらの発音が悪かったのだと拡大解釈してしまうぐらい、それはもうひどいもんだ。

こうなったのは、親の影響だと僕は思う。僕の両親はどちらも「物言うお客」だった。家族で外食するときは、なにかあってまたウェイターに注意するんじゃないかといつも冷や冷やしていた。実際にそういうことになると、周りの目があるから恥ずかしくてしかたなかった。だから僕は、これには文化的な隔世遺伝があるとにらんでいる。親が僕みたいだったとしたら、逆に子供はウンザリして将来「物言うお客」になるんじゃなかろうか。


それはともかく、タチが悪いのはこの「物言うお客」と我々「泣き寝入りするお客」が同席したときの店側のミスであり、さらにそれが「泣き寝入りするお客」の側に仕掛けられたという場合だ。

同席したのが「泣き寝入りするお客」同士だったならば、わりかしスムーズにことは運ぶ。ささいなミスなら二人とも気づいても、お互い店の人には何も言わない。「ふふ、こういうこともあるよね」と、頬笑みあってお互いの信頼をさらに深めるのだろう。さすがにこれは困るという大ごとならば、店の人も気づいてくれてなんとかしてくれるだろう。

だが同席した人が「物言うお客」なら少々めんどくさいのだ、「泣き寝入りするお客」からすれば。「物言うお客」はこの場合、我々「泣き寝入りするお客」の「ためを思って」店側にクレームをつける。だが待ってくれといいたい、

僕のような「泣き寝入りするお客」は、もちろん字義通り「泣き寝入り」している側面もあるが、それと同時にちょっとばかし考えだってあるのだ。外食に行くというのはそもそも、気分がいいひとときのはずなのだ。そのような空間を、ちょっとやそっとの店側の瑕疵をあげつらってぶちこわして、何になるだろう?料理はまずくなるし、会話も弾まない。子供の頃から、何よりもそれがイヤだった。有害無益じゃないかと、「泣き寝入りするお客」は思うのだ(たぶん)。


だからそれは、いわば「戦略的泣き寝入り」なのだ。


しかもである。この場合「物言うお客」は自分自身が損害を被ったわけではないので、結果的に問題の矢面に立たされるのは、こちら「泣き寝入りするお客」なのである。一番立つつもりのなかった、いや絶対に立ちたくなったその「原告席」に立たされたときに後ろを振り返ると、そこには「物言うお客」の友人の「オレ言ったったで」的などや顔



いやいやいやいやその顔はちがうよねッ!!



そこでタイトルどおりの「泣き寝入りする自由」を認めろ、という話なのだ。もちろん、君たち「物言うお客」が自分がされたとき「物言う自由」を認める、そのかわりにだ。
社会の不正をすべてひっぺがえしていくのが必ずしも正義であるわけではない。それと同じで相手の瑕疵をすべて指摘していくことが、一つの食卓の上の平穏な食事を守るとは限らない。「物言うお客」タイプの人には、ぜひともこの「泣き寝入りするお客」の泣き寝入りする自由を、尊重していただきたいと、思うのだ。