いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

どんなに持ち上げても作品を殺すことに荷担する批評

後悔した。やはり醜い。スノッブとはこいつのことを言う。

何が醜いかというと、モテキの作者がただ見栄えをよくするためだけに楽曲タイトルを引用する態度と

その引用元がわかることに喜んでしまうという読者との共存関係だ。

(・・・)
この引用は作品のクオリティに何の影響も与えていない。ただただ、作者が好きなものを作品内で提示したにすぎない。

わかってる奴だけが気づいて不気味にニヤリと笑うだけだ。この醜悪な一連の行為はいったい何なのか。

はっきり言うと「私はあなたの仲間である」というマーキングにすぎない。


引用に終始するサブカル好きが日本の文化を滅ぼす
(強調引用者)


「はっきり言うと「私はあなたの仲間である」というマーキングにすぎない」。

わかる、わかる、わかるよ君ぃぃぃと、会って熱い握手とキスを交わしたくなるようなエントリーなのだが、ブコメにてはあまり顕著に賛成はされていない様子。
増田に書き連ねるこういう不満や怒りというのは、この記事の場合話のきっかけこそは別のブログではあったりはするけれど、本当の最初にあった鬱屈した増田の思いのようなものは、現実の世界のごくごく些細な事柄によって積もり積もったものであったりする。そんな個別具体的なエピソードをつまびらかにできないからこそ増田に書くわけで、そうなると着火点となった自分の想いをリアルに伝えられなくなり、ブコメでも共感をなかなか得られなくなってくるのが増田というメディアの困難さでありディレンマなのだがそれはさておき、そんなこの記事のブコメの中には、「今までだってそうだったんじゃね?」という反応も少なくはない。


そうなのである。今までだって文化一般、芸術一般には先行するものの引用が含まれていたり、さらには引用物のパッチワークのみで生まれた「新しいもの」だって、いくつもあるだろう。時には引用をほとんど使わず、先行するものを一気に「過去」として置いていってしまうような圧倒的な大天才というのもどこの分野にも現れるかもしれないが、基本的には文化やアートというのは、先行作品の引用が不可欠なのだ。

でも、おそらくそのことはこの増田氏だって知っているだろうし、「引用することそのもの」がこの人の怒りを着火したのではないのだろう。それはこの記事のタイトル「引用に終始するサブカル好きが日本の文化を滅ぼす」にも現れている。そう、この「終始する」という文面に。


おそらく、増田氏がここでこれでもかと穴が開くほどぐりぐり非難したいのは、その「引用する側」そしてその「引用に気づく側」の「自意識」である。自意識だからこそ醜く激しい嫌悪感の催し、しかし自意識への嫌悪だからこそ他者の共感を得ることが難しい。というのも、それを嫌悪する増田氏のそれも、実は一種の自意識だからだ。


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そんな増田氏の文章を読んでいて、作家や作品を活かす批評もあれば、作品を殺す批評もあるのかもしれないと思った。「殺す」と言っても、それはボロカスにけなして再起不能に陥れる、という意味での「殺す」ではない。どんなにべた褒めレビューであろうと、作品の可能性を殺す批評はあるのではないか。


例えば、日本の映画批評が90年代で事実上「死んだ」という共通見解が取られて久しいが、なぜ「死んだ」のか。それは一言で言えば、映画を「作る側」が自己言及に走り、「批評する側」もその自己言及をめざとく見つけ、さらにその作家の「するどいじこげんきゅーせい」としておめでたく持ち上げげることで荷担していたからだ。もちろん、そうすることで批評家自らも「これを見つけたオレすごいだろ」アピールを欠かさなかったことは、言うまでもない。

この傾向が加速するとどうなるか。「普通に映画を楽しんでいた人」が離れていくわけである。
そういう、まあ、非常に、なんというか、山の手の方で生まれた育ちのいい僕のような人間はキーボードで打つのも恥ずかしいが、要するに批評がオナニーになってしまったのだ。自意識のオナニー。人のオナニーをこの目で見てしまうことほど、おぞましいものはない。


ここにはある意味、作者の側の仕掛けた「正解」の放つ誘惑に、批評する側の自意識が負けてしまったという現象が読み取れる。

作者も考えながら物をつくっているわけで、そうするとその対象を「こう読み取ってほしい」という「正解」だって、少なからずあるはずだ(たまに「自分でなんでこれを作ったかわからない」という希有な人もおられるが)。もし批評する側がそれを当てる「クイズの回答者席」に回ってしまったなら、それは単なる「クイズ番組」だ。むしろ、批評する側はその誘惑を排し、作者でさえも思いも寄らなかった「別解」を作者につきつける、それこそが批評する意味であって、逆に言えば作者と批評家がつーかーの関係なら、批評家なんていりはしない。それは例えば、「家電の取説を書く仕事」と一緒ではないか。もちろん「家電の取説を書く仕事」にも立派な存在意義があって、やりがいもあるだろう。僕はそれを否定しないが、とりあえずそれは批評ではない。


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だからこの増田氏は、そういう「クイズ愛好者」さんたちを直接的に非難するのもいいけれど、自分の好きな作品についてそのような人たちが回答者席ごと彼方にぶっ飛んでしまうくらいの批評を自ら書けばいいのにと、僕は思うのだ。もしそれに「クイズ回答者席」のみなさんが気づき目にしたとき、ひるがえって自分が今まで書いてきたものがなんて醜く、おぞましい物だったかが、白日の下にさらされるのだから。もちろん、その人の自意識の中だけでの話だが。