いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

あたしのリップはあたしのもの、あなたのリップもあたしのもの

相棒から面白い話を聞いた。といっても相棒は当初それが面白いことであるともなんとも思っていなくて、それとなく世間話としてしゃべったところ僕にとっては面白かったに過ぎないのだが(なんか冒頭から卑下しすぎか!?)。相棒は動物でいうところのメス、人間でいうところの女性という属性の者なのだけれど、リップクリームを同性と貸し借りすることがあるというのだ。

へぇーと思う僕。
いや、もちろん僕だって友人知人たちと鍋を囲むこともあれば、お酒の回し飲みだって日頃から辞さない構えだ。そしておそらく、それらとリップクリームの貸し借りに、「間接キッス」としての相違はちっともないはずなのである。
そう、それはわかっている。わかっているのだけれど、たぶんこれは心理的、生理的な問題で、やはり上下唇に満遍なく塗りたくることを信条とされているリップの場合、そらよっぽどの固い絆で結ばれた友人との間であろうとも、男が同性に貸すというのにはかなりの抵抗がある。


相棒曰く、貸すのに抵抗があるのは直前の回に自分が塗った際口紅が付いていたりして相手に悪いと思うときなどなんだとか。つまり、たとえ相手にいくら人格的な嫌悪感を催していたとしても女性同士の場合、リップを「相手がそれを使うこと」それ自体に対しては嫌悪感がないというのだ。特別相手に対しての生理的な嫌悪がない限り、求められたら貸すだろうし相手がリップを必要としてそうだったら貸してあげる、ということなのだそうだ。


じゃあ男女間の貸し借りはどうかというと、女はリップを貸してくれないだろうし、男のリップはそもそも受け取ってくれないだろう。相棒も男にはさすがに無理といっていた。つまり、恋人もしくはそれに準ずるエロス的な関係でない限り、男が男に、さらに男が女に、さらにさらに女が男にリップスティックを貸すという風景は、なかなか想像しがたい。想像し得るのはやはり女と女、同性同士の貸し借りに限るのだ。


フロイトラカン精神分析を呼んでいると、「父」というのは権力の権化であると同時に、ある意味かわいそうな存在にも思えてくる。精神分析において、「父」とはまず決定的な「他者」として現れる。そして母親と息子/娘たちとの融和的な関係を分断していくのである。つまり、原初においては息子にとってのみならず、娘にとってもその対象とは母という名の同性のわけだ。
それとこれとが結びつくのかはわからないけれど、「女子の二個一最強説」の例もあるように女の子同士の親密な付き合いの方が、男同士のそれよりも遙かに心理的な規制が少ないのは確かなようだ、と思った。


それでふと思い出したのは、子供の頃によくした清涼飲料水の「貸し借り」にまつわる奇妙な所作である。
真夏に外でサッカーなどしてかけずりまわろうものならば、シャツを絞ればしたたり落ちる位に汗だくになる。当然のども渇く。というので、試合の休憩などに近くの自販機に僕らは殺到していたのだけれど、その時に飲み物の交換などが行われる。そこで、ある種の「男らしさ」のようなものが試されるのである。


他の人間が口づけた缶の飲み口に、自分は躊躇なく口をつけることができるのか?


いや、別にそういうことが誰かによって広言されていたわけではない。しかしどうもムード的にあのころ、他人の口付けたものを不潔で口になんかできないという輩は「ふにゃちん」扱い、つまり「男らしくない」という烙印を押されそうな雰囲気が暗黙裏にあったような気がするのである。
おかげで、僕自身は同性の××くんや○○くんの口を付けた飲み口に触れることにあまり気が進まないのだけれど、「イマダ、ちょっとやるよ」と言われれれば、男らしくないと思われたくないので、あたかも当の飲み物が冷たくておいしいからこそ出た表情だという具合に目をつぶり―もちろん本当は苦い薬を一気飲みする時と同義のジェスチャーなのだけれど―ながら飲み込んだ記憶がある。


以前も書いた通りホモソーシャルというのは、ホモセクシャルへの嫌悪とコインの裏表の関係にある。
親密であるけれどその親密さは、決してエロス的なものをまとってはならない。でも少年時代の、少なくとも僕のコミュニティにおいては、上記のような奇妙な転倒があった。同性との間接キッスができればできるほど、ヘテロセクシャリティとしての証、「男らしさ」が証明されていたのだ。なんか変な時代でしょ。