いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

テレビの「歴史」の終焉

すでに時代遅れ感のある話題であるが、先週末観たフジテレビ「記録よりも記憶に残るフジテレビの笑う50年 〜めちゃ×2オボえてるッ!〜」。
副題でわかる通りこの番組は、めちゃイケのスピンオフ作品という様相を呈していて、「めちゃ×2イケてるのルーツを探る」という目的でメンバーが倉庫内を探索しながらも、次々とルーツと別に関係のないフジテレビのかつてのお笑い番組の歴史を辿るというアーカイブ的な内容だった。


しかし、言ってはなんだがこれまでもめちゃイケというのはテレビの「バラエティ史」というものに、同時代の他の番組以上に意識的であった。それはかの番組の「引用」の多さにも明らかだ。放送局の垣根だろうと、同時代の視聴者では到底フォローできていないことだろうと、過去の名場面名企画を問答無用で引用し続けているこの番組においては、そのパロディーの集積そのものが番組の歴史を構成していると言っても過言ではない。それは『アメトーク』という人気番組にもそれはいえる。あの番組も、「現在」ではなく「過去」の方が論題に挙げられ、過去こそが面白いのである。


パロディーによって構成されていると書くと、なにやら他力に頼っているように聞こえるけれど事態は全く逆で、数々の番組が軒並み消えていく昨今のテレビにおいて、10数年も1つの番組がトップランナーとして走り続けていることは、異常といえる。そう今や、というかだいぶ前から時代は、「テレビがテレビを語る」時代なのだ。


小説を書いたら人生終わりだ。
そういう迷信(?)を以前どこかで聞いて、真に受けて書かなかった。しかしその後にある人にそれを話したら、それは「私小説」の間違いだ、と指摘された。ストーリーがフィクションの物語であれば特段問題はないが、自分の人生自体をネタにするのであれば、それは人生の終わりを意味する。なぜなら、自分の人生を書くというのはすなわち、もう自分の人生が動かない、終わったものだということを認めたことになるからだ。

なるほど、と思った。


もしかすると、テレビにもそれがいえるのかも知れない。「テレビがテレビを放送する」時、テレビの歴史は終わる。
ここら辺で、『反美学』に寄稿したフレデリック・ジェームソンの文章とか引用できたらかっこいいんだろうけれど、手元にないからまた後ほどにでも。