いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

曖昧になるとまずいもの

曖昧にしたらまずいなってものが、たまにある。
九月の某日の夕方、朝から何も口に入れてなかった僕は、横浜駅近くの某ファーストフード店に入ってフライドポテトとチキンナゲットとシェークを注文して二階へ上がった。
中高生やらカップルやらでいつものごとくごった返しているそのフロアで唯一空いてる席に座り、僕は早速できたてのポテトをむさぼり食っていた(このチェーン店のポテトは特に、揚げたてでないと一気に不味くなる)。


すると、である。通路を挟んだ向かいの女子トイレの扉の前で、学年で言うと中三か高一あたりだろうか。女の子が一人、扉越しに中の人に何か呼びかけている。

「××ちゃん、もういいでしょ、はやく出てきてよ〜」

別段怒っているわけでなく、友達にされたいたずらに半ば呆れながら、同時にそれを楽しんでしまっている心境だろうか。誰にでもあるだろう。
というかそんなことはどうでもよくて、僕はそれを横目に無心にポテトを食べていたのである、ムシャムシャムシャ。

しばらくして、中にいたその子の友達二人が、ケータイを見なながらようやく出てきた。二人とも外で待っていた子と同じ制服。

「もー、@$%?&%で、+*%&#%&なんだから、%$#してよね〜」・・・


その後のしばらくの状況は、店内の騒がしさ+もう生まれて四半世紀が経とうとしている僕と彼女らのジェネレーションギャップそして何よりも、そもそも僕が彼女らの会話に興味なしという諸々の条件の壁によって、聞こえてこなかったし記憶していない。
わかるのは最初に外で待っていた女の子はどうも、そこまで激怒するほどでもない程度のいたずらを仕掛けられていたらしい、ということ。そして三人で揃って席に着いている様子は、特に力関係はなさそうで、普通に仲の良い三人組であり、つまり万事平和そうだった、ということだ。


問題はそのつぎだ。


しばらくすると、こんどは最初外で待っていた子がケータイを耳に当てながらトイレに入っていった。
すると後の二人は、自分たちの荷物をたたんでとっとと出て行ってしまったのである。

数分後だろうか、中にいた女の子が出てくる。
当然二人の不在に気づき、周囲をきょろきょろ見まわす。
最初、二人が同じフロアのどこかに隠れていると思ったのだろうか、フロアを軽く散策して最後、あきらめたかのように自分たちの陣取った席に戻り、テーブルの上で食い散らかされたままになっている二人のゴミまですべてトレイにのせて片付け、自分の荷物をもって下へ降りていった。


これは僕の感じ方にすぎないが、彼女がトイレに行っている間に逃げるまではありだ。でも自分なら。せめて自分の食った包み紙ぐらいはゴミ箱に捨てていくかな、とシミュレートしてみた。そうでないと、友達に仕掛けるイタズラとしては、やや度が過ぎるのではないか、と。


そんなことを、4つめのナゲットに舌鼓をうちながらぼんやり考えていた。


そのあと、眼前で起きたそんなことも一時忘れ、シェークも飲み終え一息つき、僕自身も帰り支度をして階段を下りた。するとその店の前の道では、先の置いてきぼりをくらった女の子が未だ、周囲をキョロキョロして後の二人を捜していた。

先に「逃げるまではあり」と書いたが、それはあくまで店のすぐ前とか、どこかすぐに見つけられるところで待ち伏せしていたらの話であって、そのまま置いてきた子を「置き去りにする」というのは、ありかなしかを想定するも何も僕の頭の中に最初からなかった。


これまた僕の感性による判断に過ぎないが、目の前で起きた上記の出来事を、僕は限りなくいじめに近い仕打ちだと思った。


僕はそこを(えげつねっ)と思いながらすぐに通り過ぎたので、その後彼女と他二人がどうなったのかは、定かではない。
置いていった二人はちゃんと彼女のもとに戻ってきたのだろうか。それとも本当にそのまま帰ったのだろうか。そして帰ったのだとすると、次の日学校にてどんな顔してあの子に話しかけるのだろうか。そして、置いて行かれた当の彼女は、どういう風に接するのだろうか。


依然こんな本を読んだ。

友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書)

友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書)

著者の土井は、昨今の若者の間でやりとりされる互いが互いの差異にセンシティブになり、波風が立つことを極端に嫌うコミュニケーションのあり方を「優しい関係」と定義する。ここでいう「優しさ」とは、なにもその関係に属する人間みなに振る舞われるものではない。それは、波風の立っていないその良好な人間関係を円滑に運営することに尽力する「優しさ」なのだ。

であるからして、「優しい関係」の内部とていじめは起こる。

「優しい関係」にとって、いじめは触媒のようなものである。だから、その関係を維持しようとする限り、加害と被害の関係は、生活空間内部に自ずと絞り出されてきてしまう。しかし、そのような軋んだ人間関係は、表面的には馴れ合っているだけの「優しい関係」にとっては大きな脅威でもある。そのため、子どもたちは、その意味を転化させる作業を行わざるをえない。(中略)
かくして「優しい関係」を営む子どもたちは、いじめて笑い、いじめられて笑う。傍観者たちもまた、それを眺めて笑う。互いに遊びのフレームに乗り切り、彼らが「いじり」と呼ぶような軽薄な人間関係を演出することで、いじめが本来的に有する人間関係の軋轢が表面化することを避けようとする。


31-32


「いじめ」なのか「いじり」なのか。
今の子のそれを見分けるのはきわめて困難で、もはやそれって、「あった/なかった」の事実性を争うレベルではなく、人それぞれの解釈のレベルの問題にまで移行してるのかもしれない。



いじめの発覚で一番苦しむのは誰だろうか。
当のいじめている側の生徒か。その子の親か。学級担任か。

僕は違うと思う。いじめの発覚を一番苦しむのは、当のいじめられている本人だ。なぜなら自分を「僕/私はいじめられっ子」と認めてしまうということは、自分を「可哀想な人」、「寂しい人」、「友達のいない人」あるいは「いじめられてもそれを止めてくれない程度の軽薄な人間関係しか作れない人」であることを認めることと同じであって、それってつまり、自分をいじめる人間にもう一人、自分を客観視するもう一人の自分を加えることになるのだから。


繰り返すけども「いじめ」か「いじり」かはもはや解釈のレベルの問題であり、その場合「いじめられている僕/私」を認めたくない当人は、たとえ胸に巣くう「嫌な気持ち」があったとしても、目の前で起きていることを「いじめ」or「いじり」で判断することを強いられた際、畢竟自分にとっての「易き方の解釈」に流れると見ていいだろう。そうすなわち、「自分はいじめられているのではない、いじられているんだ」、と。おそらく当面はその解釈の効用で耐えられるだろうけれど、それも未来永劫使える方法ではないだろう。いつかはきっと、事態のなにがしかの悪化があるはずだ。


カルスタ系の書籍を読んでいると、とかく「曖昧なるもの」は即良いことだと判断される嫌いがある。境界線を溶解する「曖昧なるもの」は、原理主義をやっつける有効な手段だ。でも、この「いじめ」と「いじり」の間に横たわる「曖昧なるもの」に関して言えば、あんまりポジティブに評価はできない。


自分の経験を紐解いてみても同じようなことがいえるのかも知れない。僕の中学時代にも周囲にはいじめる者といじめられる者が存在した。いじめる者は皆の前で、あからさまにいじめられる者をいじめていた。


でも、教師にそのいじめにおいていじめる者を叱るということは、ほとんどなかった。下手すりゃ先生たちは、「いじめ」の現場の横を素通りしていた、ということもあったかもしれない。それはいじめを見てみぬふりするとか、そういう彼らの利己心からの行動ではなくて、本当にわからなかったのだと思う。


ある世代はその世代でしか通じないジャーゴンでコミュニケーションをとる。そしてその世代にしかわからない仕方で、その世代にしか通じないいじめを行うのかも知れない。そしてそのいじめは、ジャーゴンを共有しない外部の人間には、いじめとして感知されない。


もしそうなってたらって思うと、背筋をスッと冷たいものが通った。