いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

“ボーイズトーク”が空転する

昨夜のおしゃれイズムの1時間スペシャルのゲストは妻夫木聡三浦春馬瑛太小栗旬という今をときめくイケメン俳優四人組。この四人の組み合わせは言わずもがな。ここ数年、男性整髪料市場において木村拓哉擁するMANDAMギャツビーを前に辛酸をなめていた資生堂が満を持して起用した、UNOの“あの四人”だ(このおしゃれイズムのスポンサーは前のおしゃれカンケイからある一社提供であるのもまた、言わずもがな)。

かくして、昨夜の日テレ10時台は本編もCMの間もずっと、例の「どぅぐどぅんどぅんどぅんどぅんどぅんどぅん」というスキャットが鳴り続けていたのであった。

どぅぐどぅんどぅんどぅんどぅんどぅんどぅん どぅぐどぅんどぅんどぅん……


さてそんななか、始終僕の中にあった「もやもや」のようなもの、しっくりこない感覚というか、終わってからも残ったのは画面の中の彼ら四人から伝わった「所在なさ気」、これにつきる。「気まずさ」とまではいかないがなんだろうあの、どこか落ち着かないというか不安定さというか。MCのくり〜むしちゅ〜上田の手の中で、辛うじて保たれたバランス。別に番組が盛り上がらなかったわけではない。四人の仲が目に見えて悪そうだった、というわけでもない。見ているこちらとて、俳優の四人に抱腹絶倒の笑いを求めているわけではないし、妻夫木などは俳優という立場以上にトークを盛り上げようとがんばっているようにさえ思えた。


あの変な感じ、「男」が四人だったというところにこそ、原因があったのではないか。


実は同じようなことが、わずか数日前のグータンヌーボスペシャルでもあった。レギュラー放送ではランダムに選ばれた女性タレントが三人、都内のオシャレなカフェに集ってお互いの恋愛や人生観、仕事観についてのいわゆる「ガールズトーク」に花を咲かせるのだが、このスペシャルではなんと番組初の男版「グータンヌーボ」が開催された。


集められたのはこれまた俳優三人衆。唐沢寿明藤原竜也と上川隆という豪華な陣容だ。見た人はわかるかもしれないが、こちらの3人は前述の4人以上に「所在なさ気」だったのだ。どこか落ち着かないというか、三者ともにとにかく「間」の開くことを恐れていた。沈黙ができかけると、誰かがそれを地面すれすれの所でキャッチするかのようなあの緊迫感。普通に考えればおかしな話なのだけれど、同性の僕も実際に同じようなシチュエーションに置かれれば、そういう緊迫感を味わうだろうなという予想が付きそうだ。


この2つの番組という線でつながった2つの点と、もう一つ僕は偶然にもある点と出会った。それはある本。

例えば、常に男女入り交じって同じように活動していれば、男特有の話法、女特有の話法は発達しにくいだろう。男だけでまとまったり、女だけで集まったりする場面があるから、コミュニケーションに性差が生じてくると考えられる。
そのもっとも端的な場面は、戦争時である。有史以来、人間は、自らが属する共同体の支配権拡大をめぐって、絶え間なく他の共同体の闘争、戦争を繰り返してきた。そのため、仲間との友情を確かめ合う荒っぽいコミュニケーション作法が男性の間に発達し、敵を作らないための穏やかなコミュニケーション作法が女性の間に発達した、という仮説を立てて見たいと思う。前者を「喧嘩コミュニケーション」、後者を「褒め殺しコミュニケーション」と名付けよう。


大野左紀子『女が邪魔をする』p60

「女」が邪魔をする

「女」が邪魔をする

この仮説に与すれば、前述した2つの男同士のおしゃべり=ボーイズトークの事例がなぜ女のそれほどしっくり来ないかが、わかるような気がする。男たちの「喧嘩コミュニケーション」と女たちの「褒め殺しコミュニケーション」、そこに差異があるとすればそれは、コミュニケーションの意味の必要性、これに尽きるのではないか。男にとっては喧嘩するのにも、何で両者が対立しているか、なにがしかの理由や意味が必要なのだ。


もちろん「褒め殺しコミュニケーション」が無目的だとか無意味だといいたいわけではない。しかし、少なくとも男のホモソーシャルにはその「ホモソーシャルが構築されたことそのもの」への意味や理由が不可欠であり、それがあれば強固なものになりうるがそれがない場合、そのもろさが露呈する、ということなのだ。


考えてみれば、おしゃれイズムに集った男四人衆を繋いでいるのは、CMで共演したというほどの希薄な理由である。「グータンヌーボ」の場合はさらに苛酷で、会話の指針となるMCもいなければ話のお題も渡されない。「出会って、ただ気軽に話していてください。撮ってますんで」という感じでカメラの前に放り出される。このなんの脈略もなく「ただ気軽に話」すことは、普段は何らかのお題目での「喧嘩」を得意としている男たちには、なかなか厳しいものがある。


ちなみにウィキペディアのおしゃれイズムの項で過去の出演暦を覗いてみると、女性タレントの場合は親子でもなければお笑いでコンビを組んでいるわけでもないのに、なぜか同じ回にゲストとして複数の同性と出演している回が、何度もあるというのは興味深い。
ウィキペディア「おしゃれイズム」→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%97%E3%82%83%E3%82%8C%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%83%A0


男たちが異性を排して作り上げた人間関係を、ホモソーシャル(大野さんの本にも出てくる)という。言い出しっぺのセジウィックという人はしかし、ホモ(同性)と付けながらも、では女性たちだけの人間関係にも言及しているかというと、してはいない(少なくとも僕の読んだ限りでは)。

しかしガールズカルチャー、ガールズトークという言葉が指し示す通り、男に排除された後に女たちがその外部で独り途方に暮れているわけではなく、彼女たちもまた、男を排したいわば「ホモソーシャリティ」なるものを構築しているはずなのだ。セジウィックが言及しないのは、社会的文化的な領域においての中央/周辺という差異が男/女の性差を踏襲しているという事実を鑑みた上で、あえて権力を収奪する男の側のホモソーシャルだけを論じたということなのかもしれない。そしてその女のホモソーシャルをつくる能力ってのは、男の「大儀」だの「勝利」だの「理念」だのという暑苦しいもんを必要とするそれとは違い、局所的、偶発的、突発的に生まれる。どっちがよいとか悪いとかでは、ないのだけれど。


ということを考えてたらそのおしゃれイズムからわずか30分後、三点を結んだ線をまた1つ延長するもう一つの「ガキの使いやあらへんで!!!」という「点」が見つかった。昨夜はココリコ遠藤が自分以外のレギュラーメンバーが全員自分を掘ろうとしているんじゃないかという妄想にとりつかれるというコント的内容の回で、破滅的に面白かったのだけれど、自分のシンクロニシティがあまり笑えなかった。