いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

古本を通して他者の欲望をも、読む

古本というものに目がない。ビンボーなので。

で、僕の読むジャンルに偏りがあるのかもしれないが、古本を読んでいるとたまに、というか結構な頻度で文中に線が引かれているということがある。以前はそういうのを目にすると、「ったく、筆入れた本を売るなっつーのっ!」と思い、画面に現れる単なる「ノイズ」として片付けていた。しかし、年々考え方が変わってきて、最近は文中に引かれた名もなき他者のその線が面白く思えるようになったのだ。

線を引くということは、その「本の履歴」である過去の読者がそこを重要だと思った、あるいはまた読み返したいと思ったということだ。煎じ詰めれば、その本に対するその人の欲望が、線を引いた箇所に集約されているということを意味する。その他者の欲望と併走しながらの読書というのが、これまた楽しいということが分かったのだ。


一冊の本であっても、その本を手に取った動機、その本を読むまでに歩んできた人生、バックグラウンドとなる知識がみな違う以上、100人読めば100通りの読み方がある。どのページのどの箇所が重要だと思うか。それは千差万別だ。
中には、僕と読み方が全く持って違う、もし線が引かれていなければ気にもとめなかったような「そこに引くかおい!」という箇所に、線を見つけたりする。その反対に、その後に僕が読むことがまるで織り込み済みかのように、その人が「引いておいてくれた」かのように思える、僕の琴線に触れる箇所のみを縫うような線とも、出会うことがある。


これは知人に借りた本ではダメだ。古本だからいいのだ。知人に借りた本に線が引かれていることもあるのだが、どうも本の履歴=線を引いた人間をこちらが「知りすぎている」ために、読書に没入できないのだ。なんと言えばいいのだろう、線の引いたところで「あの人、ここに注目するんだ」ということに気が逸れてしまうのだ。その点、古本屋で出会う本の履歴なんて知ることはできない。過去の読者という他者が、純然たる他者として、シルエットとしてのみ現れるからよいのだ。
この本を手にした読者は確実に存在した(だから線が引かれてあるのだ)がしかし、僕はその人の固有性、何ものかをまったく知るよしがない。そのちょうどいいところに、古本に引かれた線から夢想できる「他者」は収まっている。


あと、古本に挟まれた「しおり」というのもまた興味深かったりする。といっても、文庫や新書などに買ったときについてくるしおりではない。しおりをなくしたか、もともとない時にその人が「そこら辺にあったもの」をとりあえず挟んだのだろうと思われる、「しおり(仮)」のことだ。

「そこら辺にあったもの」で最も多いのはレシートだ。時にはどんな高尚な思想の本でも、コンビニで「プッチンプリン」を買った時のレシートがその間に挟まっていたりすると、思わずニヤけてしまう。どんなに高尚な思索を巡らす読者でも、生きとし生けるものである以上確実に腹は減る。たまには甘いものだって食べたくなる。そういう実存としてのその人の生が、思想という抽象概念とはまた別のところにちゃんと存在するのだということを、そのレシートを通して確認できたような気がして、なんだかほっとするのである。

ただこれにも種類があって、一度ページをぱらぱらめくっているうちにヒラッと落ちたレシートを拾って眺めると、それが精神科の治療院を受診した際にもらう領収書だったということがあり、なぜだかその時は暗鬱になったという記憶がある。