いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座、直毛によるブログ。今ここに、ポスト宮根誠司を目指すことを誓います。

休載するマンガ家になぜ読者はキビしいのか?(改題)

某超人気週刊マンガ誌において、異例の長期にわたって連載を休止している某超人気マンガ家がいる。そのマンガの単行本の巻数が、同じ時期に連載を始めたこれまた超人気マンガ家の作品の単行本の巻数のおよそ半分にも満たないということから、少なくとも彼の連載期間のうち、休載していた期間がその半分以上を占めているということが推測できる。
僕はこのマンガを読んでいる。いやもはや、「待っている」という方が適切かもしれない。現時点で、彼のマンガの続きが読めないというのは残念ではあるが、それは「仕方ないこと」だと思ってなかば諦めに近い心境で、待っている。待つほかないのである。どこの世界にも作家の遅筆(この人の場合は少々度を超えたそれではあるが)というのはあるが、それは作品の質とはまた別の位相にある問題であって、だからといって焦って続きを描かせた結果、作品がつまらないものになるよりか、じっくりと醸成された内容を読みたいというのが、読者冥利に尽きると思うのである。


しかし世の中には、僕のようには思わない人も、いるようである。某有名掲示板や、某通販サイトのレビューページでは、彼への激烈な批判がなされている。
それは今に始まったことではない。特に休載が目立つようになってからだ。休載していることに対する批判。しかし、僕が思うにマンガ家の遅筆を責められるのはそのマンガを売る側だけであって、実害を被っていない僕たち読者の側は、もし今週号のジャンプ(あ、言っちゃった)にその作品が載ってなかったとしても、残念がってまた本棚に戻せばよいのだ。読者が休載をすることに腹を立てたり批判したりするのは、どこか筋違いなように思える。少なくともファンであるなら、その連載の再開を「待望」したとしても、批判まですることないのではないか。それが、僕には不思議なのだ。

批判しているのはファンではなくてアンチだ、といわれればそれまでだ。しかし、論理的に破綻している彼ら批判者の書き込みを眺めていると、どうも単なるアンチとは切り捨てられないような、「かわいさ余って憎さ百倍」というか、愛憎入り乱れた複雑な感情のささやきが、行間から伝わってくる。それだけに、込められた憎しみも一入なのかもしれないが。


ここでゲスの勘ぐりを許してもらえるならば、このマンガ家の、特に内容ではなく休載を責める部類の批判者というのは、マンガ読者のなかでもとりわけ、「作家に限りなく近い読者」なのではないだろうか。つまり、自らもすでにマンガを描いたことのある読者だ。


インターネットの普及による表現空間の無限化、テクノジーの発達、創作技術の理論化、体系化などによって、「表現する」ということは僕らにとって、さほどかけ離れた行為ではなくなった。それは同時に、プロの作家を特権的な位置からも引きずり下ろすことにもなった。もはや読者は一方的に作家を見上げない。作家も読者を一方的に見下すことはできない。上と下にあった関係は、真っ平らに近い地平へと移行。プロの作家と読者(アマチュアの作家も含む)の差違は、限りなく縮まったのだ。

しかし、どんなに縮まったとしても、プロとしてやっていけるかいけないか、作品が市場で価値を持ちうるか持ち得ないか、両者の間にその差違だけは、残酷にも残ってしまう。そして時にその差違は、作画やストーリーテリング、キャラクターの魅力などの創作技術という納得のいく差違によって説明できるものではなく、どうして生まれるのかわからない、「不条理な差違」であることがある。


通常、この「不条理な差違」というのは見過ごされるものだ。
例えば、僕らはこの国の宰相がどんなに愚鈍な人物であったとしても、直接的な憎しみは抱かない。その地位が、その人の資質や能力的と照らし合わせて、どう考えても見合っていない「不条理な差違」であったとしても、おそらく僕らは呆れるだけだろう。なぜなら、その彼が僕らと価値観から何まで、ほど遠い存在だからだ。相手が遠い存在であるうちは、この「不条理な差違」は気にならない。
問題は、その人にとってごく身近にある人物が、彼よりも評価され、彼よりも名誉を手にしたとき。そのときにこそ、彼の前にその「不条理な差違」は、「なんで俺でなくあいつが!?」という憎しみの感情をともなって、顕在化する。僕ら日本語話者はその感情を、近親憎悪という言葉ですでに知っている。

昨日読んだa-parkさんの日記からリンクされているマンガを読むと、そこにはまさに休載ぎみの人気マンガ家が出てきて、その彼の前に「私 漫画を描かない漫画家は…死ねばいいと思ってるんです」と罵るマンガ家志望のヒロインが現れる。二人の関係は次第に悪化し、やがてスプラッターな様相を呈していく。続きはマンガを読んでほしいが、このヒロインのように暴力的な行動に移さないまでも、「休載の多い人気マンガ家」に対して、批判者が持つ感情というのは、おそらく彼女と似た「私だったら連載に穴なんて空けないのになんで!?」、「私だったら毎回きちんとした画を描き続けるのになんで!?」という、そのマンガ家と自分との「代替可能性」によってもよおされる憎しみだと思うのだ。


しかし、その憎しみを抱く者が、憎しみを抱かれる者と同じものを手にしたとして、はたしてそれで彼の欲望が充足されるかは、わからない。

商業である以上、プロの作家は本当に描きたいものは描けない。その表現にはある程度の制約がされる(現にこの某人気マンガ家のマンガは制約されている)。一方で、アマチュアは描きたいことを好き放題描けたとしても、それを通して金と名誉を手に入れることはできない。その人にとって創作することが、自己実現の円環に留まるうちは、だれも幸せにはなれないのかもしれない。


これがあなたの夢想した「総表現社会」の現状ですよ、梅田さん。