いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

君、知的コンプあんの?なら知性的だ。

盛り上がってるエントリー。

「はてな」という、知的コンプレックスがある人たちのコミュニティ - 日々の色々・The colour of the sun

この知的コンプレックスというのは、いったい何をさしているのだろうか。この定義がなされていないため躊躇するところだが、もしここでいう知的コンプというやつが、「あたしさぁ、頭いい人に会うとすぐ好きになっちゃうのよね〜」などの単なる嗜好を指し示しているのではなく、素直に「自己が知的でないことに劣等感を抱いている」という意味でとっていいのなら、この文章を書き続けたい。もし前者の意味だったとしたら、僕としてはまことに残念ながら、以下の文章は何の価値もないことになるだろう。


さて、はてなが知的コンプレックス、「自己が知的でないことに劣等感を抱いている」人の集団であるとしたら、まったくもって、それでいいと思う。
なぜならそれだけで、はてな村とは「知性的な集団」ということになるからだ。いったいどういうことか。


知性というのは本来、単なる「もの知り」ではない。もの知りとは知識の量化であって、知性とはそういった量化によって計られるものではない。もの知りというのにも勿論知性がともなうこともあるが、それだけではただの「クイズ王」だ。

例えば、一人の料理人がいたとする。僕らがそのシェフの料理の力量に驚嘆するとすればそれは、彼が新鮮で高価で最高級のありあまる食材によって調理をしたときの「おいしさ」ではなく、冷蔵庫の余り物などの雑多な食材から思いの他の「おいしさ」を作りだしたときではないだろうか。それと同じで、知性とは自分に「できること」の量ではない。そうではなく、自分には何が「できないこと」かを見極め、時と場合によって自分の「できること」の中から最適解を提出することだ。


東大総長時代の蓮見重彦が、こう言っている。

「知性とは、何よりもまず、知性そのものの限界をみきわめる力にほかなりません。」


現時点での自分の限界を知っていることにこそ、知性が含まれる。言い換えれば、「俺は知性がないなぁ」と思っていることそのものによってこそ、その人の知性は証明されるのだ。反対に、自分が知性的であることにふんぞり返っていては、知性もへったくれもない(そのことを「人をアホいうもんがアホなんじゃ」という「子どもの言い分」のレベルで、僕らはすでに学んでいる)。


「自己が知的でないことに劣等感を抱いている」のは、まさに自分の知性とその向こうに広がる限界領域の「境界線」を知っているということにほかならない。そうなると畢竟、はてなが「自己が知的でないことに劣等感を抱いている」人の集う場所であるとすれば、それは知性にあふれる集団、ということになる。もちろん、たとえ「自己が知的でないことに劣等感を抱いている」としても、「まあいっか♪」とその「知的でないこと」にその人が甘んじているのなら…
それ以上は言わずもがなだが。