いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

ブロガーはネットゲーマーを嗤えない

ululunさんとは逆に暇が有り余って仕方のない僕のブログ更新が今、ハイペースだ。これは一種の嗜癖である。危険だなぁと薄々気づいているものの、それでもずぼずぼハマっていくのがこの手の嗜癖なわけで(そう考えると「わかっちゃいるけどやめられない」のスーダラ節はもっと重々しい曲にするべきだったと思う)、ここから先、僕は「ブログという嗜癖」についてつらつら書くつもりだが、それを書いてもなお当分暇でなくならない限りブログを書き続けるのだろうということは、先に予告しておく。


さて、ブログの更新が嗜癖でない「安全水域」から、嗜癖と化す「危険水域」に移行する、その境界線とはなんなのだろうか。

rssを読んでいた主目的が「ブログを更新するネタを探す為」であった事に気付いたというか

これである。ブログとはそもそも書き手の内にある何らかのオピニオンを表明する形式にすぎなかったはず。しかしいつしかそれは、更新することそのもの、その形式自体を存続させることに書き手を執着させていく。

ではその、嗜癖となる根本的な原因とはいったい何なのか?ブロガーはこれに関していえば、ネットゲーマーをバカにできないと思う。なぜなら、ブロガーがはまっていくものは、ネットゲーマーとさして変わりない。そう、コミュニケーションだ。


しかし、このコミュニケーションとは、すこし特殊な部類のそれだ。ネットを介して出会う他者は、基本的に数値としてあわられる。何の個体差もない数値として。いわばそれは、「数値化されたコミュニケーション」だ。
さらに、数値化をするということは、つまり量化するということだ。自分の意見に何人が注目し、何人がそれを読んだか。それは、たとえばはてなならページビューやブックマーク、スターの数で示される。その量化された反応によって生まれる達成感は、その文章に対しての読者それぞれの複雑に入り組んだ個性=「文章の解釈」を平板化させる。それが推し進められていけば、畢竟内容よりもまず量を稼ぐ、という転倒が起きるのは難しくない。たった一人の読者の深遠なる読みもありがたいが、僕らの自己顕示欲は量化された反応に、あまりにも弱いのだ。

そして嗜癖の始まりだ。ブログが次々と更新される。ページビューが次々と増えていく。それに呼応して、ますますブログは更新されていく。「これを書く意味って、何なの?」という疑問を度外視することによって…


なぜコミュニケーションにその嗜癖性があるのかというと、それはコミュニケーションに「終わりがない」からだ。所詮ゲームはプログラムによって動き、そのプログラムによって生み出される出力にはパターンがある。パターンがあるということは「終わりがある」ということだ。それに対して人と人のコミュニケーションのあり方を包括的に語ることはできない。特に、本音渦巻くネット上では何が起こるのかはわからないのだ。

加えて数値にも終わりがない。カウンターの桁数が続く限り、それは増えていく。この点、ネット上における「数値化されたコミュニケーション」というのは、究極の嗜癖性を擁す。終わりなき数値によって計られる、終わりなきコミュニケーションなのだから。



inspired by http://d.hatena.ne.jp/ululun/20090502/1241234160