いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

憎ったらしいけどほっとけないあんちくしょう

昼メシ時の日テレの不快度指数がこの春、一段と高まったことにみなさんお気づきだろうか。

その原因は中山秀征。そう、おもいッきりDON!のヒデちゃんである。
彼は故ナンシー関のコラムにおいて、批判対象としてあまりにも痛烈に、そして幾度となく取り上げられた。亡くなった彼女にとっては不本意なことかもしれないが、ふりかえってみると彼女のコラムの代表的な登場人物のひとりであったのはたしかだ。しかし、彼を「何でもできるけど、何にもできない人」といわしめたナンシーの鋭利な批評眼さえ届かなかったのは、「なぜヒデちゃんはそれでもタレントとして飯が食えているのか?」という謎の解だった。

いや、もしかするとナンシー自身気づいていたのかもしれない。コラムでついつい取り上げてしまうところにこそ、ヒデちゃんの求心力があるのだと。人をひきつける人、という言い回しがある。それは元来、みなに「羨望の眼差し」を向けられる魅力的な人を形容するときに使う表現だ。僕がヒデちゃんについて言いたいのはそういうことではない。むしろ真逆だ。見るものに「こいつなーんにも魅力ないな」と見かぎられながら、それでも「じゃあなんで人気あんだ?」という「疑いの眼差し」を集める。それこそがヒデちゃんの求心力なのだ(そして今これを書いている僕自身も、もちろん彼の「求心力」に引っ張られている者の一人だということは、言うまでもない)。このことについては、以前に藤原紀香で書いたから深くはふれない(藤原紀香というマクガフィン - 倒錯委員長の活動日誌)。

そんなヒデちゃんを、たしか先週の週刊SPA!が「われわれは彼から学ぶべきかもしれない」と、好意的に取り上げていた。いろいろと言われながらも、彼はついに全国ネットのお昼の帯番組の司会の座にまで登りつめたではないかと。久本雅美いわく、「彼のいいところは、人をいやな気持ちにさせないところ」。・・・逆に言えば彼のあたりさわりないタレント性を言い当てているのだが、その「人をいやな気持ちにさせない」のって、実は大切じゃないかと、記事は投げかけていた。

そう、ヒデちゃんは人をいやな気持ちにさせないのである。
しかしである。冒頭でも書いたとおり、今日の昼に見た彼はいつにも増してムカつくではないか。俺は今、十分いやな気持ちになってるぞ。
子を持つ親として教育に一家言をぶつ(ヒデちゃんのくせに)。深く知りもしないのに北朝鮮問題にしたり顔をする(ヒデちゃんのくせに)。後輩芸人を先輩づらしてイジっている(ヒデちゃんのくせに)。料理コーナーで試食した料理にいっぱしの感想を言う(ヒデちゃんのくせに)。ニコニコ笑ってる(ヒデちゃんのくせに)。・・・・ヒデちゃんのくせに。たしかに、前身のラジかるッにおいても同じようなことを彼はしていた。だが微妙に違うのだ。ラジかるッからおもいッきりDON!に番組が変わった際に、彼の中で何かが少しだけ変わった。

端的に表現すれば、彼はもうわれわれが投げかける(ヒデちゃんのくせに)という視線を、受け入れてくれなくなったのだ。
これまではこの(ヒデちゃんのくせに)を、彼自身喜々として受け入れてさえいた感があった。なぜなら(ヒデちゃんのくせに)という視線を受け続けることこそが、彼自身は知ってか知らずか、中山秀征というタレントの生命線だったのだから。そしてわれわれの側も、その(ヒデちゃんのくせに)の中には、彼へのイラだちとともに、気づかぬうちに微量ながらも「愛情」さえも含んでいたはずだ。
繰り返しいう、ヒデちゃんは人をいやな気持ちにさせないのである。
しかし、今の彼はもう違う。今の彼は、こちらの投げかける(秀ちゃんのくせに)の視線を冷たくはたき落とす。まるでそんなもの、俺にははなから関係なかったとでも言うように。彼がその替わりに背負ったもの、それは「大物司会者の貫禄」だ。彼は明らかに路線を変えようとしている。もちろんそれは、ヒデちゃん自身が作り上げたものではなく、人から譲り受けたもの。そう、人呼んで「白昼の暗黒」ことみのもんたから。

もしかして、もう自分はその(ヒデちゃんのくせに)という疑いの視線なしに、ひとり立ちできると思っているのだろうか。あームカつく、「いっぱしに司会してるぜ、俺」って顔してるよ。
ヒデちゃんのくせに。