いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「怖い人」が怖い理由


話題が冷めちゃわないうちに書いておく。

「昨日は飲み過ぎてなんかよく覚えていないんだよね」って言いだしたから、

私ほんとに安心したら、その次、



「ってこういう風に適当な会話をすればいいんだよね」

抜粋「http://anond.hatelabo.jp/20090331214815 より

このことについて、「怖い人」と「怖がった人」どちらに非があるかとか、、ブコメやトラバではもう言い尽くされているし、そういう正否の観点からだけでなく教訓にすべきだというhrkt0115311さんのエントリーにも同意だし、そもそもどこが怖いんだという意見まであるのだが、これを読んで「怖いと思った派」の人間として僕は、この「怖い人」がなぜ怖いのか、その「怖さ」について考えてみたい。

端的に言えば、この「怖い人」の怖さとは、この元増田さんとの会話の次数がひとつ繰り上げたことにあるのである。
話は飛ぶが、恋愛における告白がなぜあれだけ緊張を呼ぶものなのかを、考えていただきたい。それが「愛の」告白だからだろうか?それとも、告白する相手が恋い焦がれる人だからだろうか?それらも理由の一側面として数えられるだろうが、それだけじゃないと思う。

告白が緊張を呼ぶのは、それが双方の関係性そのものについての言及をおこなう、「メタコミュニケーション」だからだ。AくんがBさんに恋しているとします。でもそのことをBさんは知りません。その時点では、2人は単なる友人関係にあり、2人の間でなされる会話は通常のコミュニケーションである。ところがある日、恋心に苦しめられたAくんは我慢できなくなり、Bさんに告白することを決意しました。

Aくんが体育館裏でも校門でもどこでもBさんを呼び出してもらっていいのだが、そんなAくんがBさんに対して行う告白とは、一体どういう要求なのか。手をつなぎたいとか、キスしたいとか、具体的な要求はあるだろう。しかしそれを、ものすごく抽象化すれば、「Bさん、僕との関係性を『友達』から『恋人』に作新しませんか?」というお願いであり、AくんとBさんの関係性そのものについて言及する、メタコミュニケーションであることがわかる*1

このメタコミュニケーションは、通常はよっぽどのことがなければ行われない。親は自分にとって、いつの間にか「親」になっているし、友達は自分にとって、いつの間にか「友達」になっている。学校や職場で、初対面の人と出会うことがあるがそのときは儀礼的な行為(入学式、入社式等)が緩衝材になるため、メタコミュニケーション(「俺の友達になってくれませんか?」「僕の同僚になってくれませんか?」等)は引きおこされない。


長々と書いてきたが、本題に戻ると元増田さんの社交辞令を真に受けた「怖い人」は、前段の飲み会においてやや気まずい別れ方をしてしまった。それを受け手の次の日の会話。

「昨日は飲み過ぎてなんかよく覚えていないんだよね」

酒の失敗は誰にでもあるだろう。そんな時、次の日の対応が重要だ。思いの外「会ったら一応ふつーな感じ」の「怖い人」は、昨夜の失態を体のよい落としどころ落とすかのように社交辞令を言ってきてくれる。それを受けて、元増田さんはここで一端「安心」してしまう。
しかし、この社交辞令としての「コミュニケーション」自体が、「怖い人」にとっての誘い水であったことが即座に発覚する。

「ってこういう風に適当な会話をすればいいんだよね」

おわかりだろうか。この言葉がグサリとくるのは、以前に元増田さんから言われたことを真に受けて、飲み会で失態を犯してしまったものの、その次の日には「昨日は飲み過ぎてなんかよく覚えていないんだよね」と言い訳することでその場のお茶を濁すことのできる、彼に言わせれば「適当な会話」、適当なコミュニケーションそれ自体に対する言及だからだ。


大方の予想通り、彼はコミュニケーション弱者なのだろう。コミュニケーション弱者ほど、自分の参加している(あるいは参加させられている)コミュニケーション自体に言及してしまう気がする。コミュニケーション強者は、そのコミュニケーションそのものに耽溺することのできる素質を持っているし、耽溺しなければそれは「KY」なのだから。

大学に入学したときに、語学の授業で偶然隣に座った同級生の男の子に「友達になってくれる?」と言われた。ドキッとしてのは、別に僕にその気があるわけじゃなくて、友人関係の入り口で、そもそも「友達になることのお願い」なんて普通しないだろ、と思ったからだ。案の定、彼はその後次第に学内で姿を見かけなくなり、昨年の卒業者名簿には、その名がなかった。

*1:ちょっと前にDoCoMoのCMで瑛太が「俺たちってつきあってんのかな」と言っていたが、あれもメタコミュニケーションである。