いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

自分の中の「ドキュメンタリー観」のうかつさを恥じ入ってしまう映画『さよならテレビ』の衝撃

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観たのは渋谷・ユーロスペースだったが、観終わったあと、劇場の明かりがついてもしばらく座ったまま考え込んでしまった。誰かと話したいことが山ほど出てくる。いい映画を観終わったあとに襲われる感覚だ。

本作『さよならテレビ』は、2018年に制作された東海地方のローカル局東海テレビのドキュメンタリー番組をもとにした同名の劇場版。同局の報道部の姿を撮影したドキュメンタリー番組である。

sayonara-tv.jp

 

普段はものごとを撮って編集する側が、撮られて編集される側に回る。それが本作の何よりもの特異点で、撮るのは慣れているが、撮られるのは慣れていないテレビマンたちのおっかなびっくりな姿も微笑ましいのだが、当初は多少のフリクションも起こす。観客からみても頼りなさそうで、おぼつかないように見えたドキュメンタリー取材班だったが、観終わった今にしてみれば、その印象すら観客を油断させるための仕掛けだったのかもしれない、とさえ思えていく。それぐらい、細部まで考え抜かれている。

 

本作が切り取る報道部は、多面的な問題を抱えている。視聴率の低迷、それゆえに視聴率優先の「報道」の内容、異常な残業量を抱えながら「労働問題」を報じる矛盾、定型文みたいなことしか言えない司会アナの葛藤などなど…。

 

映画はそれらを、冴え渡る編集技術で整理し、観客にわかりやすく提示していく。本作ではナレーションは全く使われず、テロップさえほとんど使われない。こうした手法は何も新しいことではなく、「ナレーションを使わないことで解釈に幅をもたせ、観客それぞれに考えさせる」という定型的な説明がくっついて回るのだが、本作は違う。

本作はそのさらに上をいき、ナレーションを使っていないにもかかわらず、映像の編集技術によって、意図した場所に観客をスムーズに案内してしまうところだ。観客はまるで、自分が考えてそこにたどり着いた、と錯覚するだろうが、そうではない。知らぬ間に、優れた編集技術のアテンドを受けているのだ。

 

それだけではない。本作は硬軟のバランスが絶妙で、多少重苦しいシリアスなシーンが続きすぎたら、次のシーンはこんなの笑うしかないというシーンを持ってくる。このバランス感覚がすばらしい。この笑えるパートについては、途中からでてくる「とんでもない逸材」のキャラクター性、作品性にもだいぶ助けられていると思うが、彼をどのように使うかというところでも、本作の技術力は疑いようがない。もうここまでくると、冒頭のおぼつかなさはどこへやら、だ。

 

一方で、目の前で繰り広げられていくそうした「ドキュメンタリー」に、ある「違和感」を覚えている自分にも気づく。いやそれは、正しく言えば「『違和感を覚えないこと』への違和感」というのか。あまりにも話が綺麗にまとまりすぎているのだ。本作を観ていると、そうした「ドキュメンタリーならでは淀み」のようなものがない。その事自体への違和感である。

中盤で報道部と、そしてあるアナウンサーが葛藤を抱えることになったある大きな放送上の事故(この話に移ったとき、ぼくはようやく「ああ、あれやっちゃったの東海テレビだったか」と思い出すのだが)が開示されることによって、そのドラマ性は余計に際立つ。言ってはなんだが、本作よりストーリーがつまらないストーリー映画なんていくらでもある。

 

ぼくの感じていた「違和感」が予告していたように、最後の最後に待っているのはある種のどんでん返しである。これ以上言うと確実にネタバレの領域を侵犯してしまいそうなので踏みとどまりたいのだが、最後に一言言わせてもらえば、本作は東海テレビ報道部という題材を選びつつも、「ドキュメンタリー(というもの)のドキュメンタリー」であった、ということだ。その真意は、ぜひ劇場で確認してもらいたい。

 

ただし、メタ目線(形式)では「ドキュメンタリー(というもの)のドキュメンタリー」であったとしても、ベタ目線(内容)で「テレビ局、報道部、アナウンサーとしての葛藤」の数々がすべてフィクションだった、とも言い切れない。つまり、終局にたどり着くまでに描かれてきた内容が、「ドキュメンタリーのドキュメンタリー」のための手段で、真っ赤な嘘だった、とはどうしても思えないのだ。

 

では、本作をどうとらえればいいのか。ノンフィクションなのか、それとも、フィクションなのか。あるいは、どこまでが真実でどこまでが脚色なのか。それを考えるための補助線として、この映画を観たあとに読み始めた森達也の著書『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』を挙げたい。

それでもドキュメンタリーは嘘をつく (角川文庫)

それでもドキュメンタリーは嘘をつく (角川文庫)

 

この本を読むまで、森さんについては『A』などの実際の映像作品は観たことがあったが、テレビでたまに観る際には、何が言いたいのかイマイチ分かりにくい、要領を得ない話し方をするオッサンだなあというイメージぐらいしかなかった。そんな森さんにやら本著は、彼のドキュメンタリー作家としてのマニュフェストとして分かりやすくまとめたものになっている。

 

これを読むと、森自身はドキュメンタリーをはなから「ジャーナリズム」とは考えていないことが分かる。

  撮らないことには作品は成立しない。当たり前だ。そしてこの「撮る」という意志と行為が、ドキュメンタリーの本質だ。フィクションかノンフィクションかという明確の区分けは不可能だし、実は意味はない。なぜなら「撮る」という作為は、事実に干渉し変成(フィクション化)させる。言い換えれば、現実をフィクショナライズする作業がドキュメンタリーなのだ。

別の箇所で森は、撮ること自体が対象の人物に変化を与えることであるとも語る。そもそも「中立で公平なドキュメンタリー」などない、と断言している。

森の論の側に立てば、本作について「フィクションなのか、ノンフィクションなのか」と考えることが意味のないことになる。

そしてさらにいえば、「フィクションかノンフィクションか」という二元論を招く本作のいかがわしさは、そのジャンルの起源とともに存在する「ドキュメンタリーの本質」である気がする。そもそも、ドキュメンタリーとは、現実かニセモノかの間で揺れる「いかがわしさ」が醍醐味だった。そして、そのどちらもが正しいのだ。

 

少なくともいえるのは、この映画を観たあと、ぼくらはきっと「ドキュメンタリー」という言葉を、この映画を観る前と同じ手触りで安易に使うことはできなくなるだろう。そして、これまでうかつに使っていた「ドキュメンタリー」という語句を恥じ入りたくなってくる。「ドキュメンタリー」をめぐって、観る前/観た後の世界を変えてしまう。そんな強烈な一撃だ。 

“史上最強”ジェニファー・ロペスが股間も心も直撃! 映画『ハスラーズ』がマブすぎる

ポスター/スチール写真 アクリルフォトスタンド入り A4 パターン 1 ハスラーズ 光沢プリント

 

www.youtube.com

ジェニファー・ロペス史上最強のジェニファー・ロペス

ジェニファー・ロペスといえば、90年代後半から2000年代まで「エロくて強え女」の人類代表みたいなところがあるのだが、個人的にはここ十数年ほど鳴りを潜めていた印象は否定できない。

本作『ハスラーズ』は、そんな彼女の「ひさびさのジェニファー・ロペスっぽいジェニファー・ロペス」が拝めると思っていたが、鑑賞してみたところそれどころの騒ぎではなかった。ここに来て史上最強のジェニファー・ロペス、「ジェニファー・ロペスによるジェニファー・ロペスのK点超え」が垣間見られる一作である。

 

↓インスタグラムでは今もバリバリ現役なジェニファー・ロペスくん(←古臭いグラビア風キャプション)

 
 
 
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舞台はニューヨーク、欲望がむき出しになる場所、ストリップ・クラブ。女性ストリッパーたちが主役だ。『クレイジー・リッチ』のコンスタンス・ウーと共にダブル主演を務めるジェニファーの役どころは、クラブのダンサーでリーダー的な位置に立つラモーナだ。

観客の股間と心にファーストインパクトをぶちかますのは、眩すぎるジェニファー・ロペス50歳バージョンである。屋上でほぼ全裸に毛皮というマブすぎる姿でタバコを吹かせたかと思えば、キレキレのTバックで華麗にポールダンスを踊る。

肉体のお手入れやお直しといったものに筆者は詳しくないが、それらが施されていたとしても、まあ御年50には到底みえないパワフルな肉体は見事であるし、カリスマ性にあふれる振る舞いは、多くの観客の心を鷲掴みするだろう。

映画館で見るべき一作であることに間違いないが、さらに付け加えると、この映画に関してはできるだけ前方の座席で鑑賞するのがオススメ。スクリーンを見上げる座席に座れば、ジェニファー演じるラモーナ様の艶めかしいダンスを、まるでステージ下から見上げる観客の目線を追体験できるだろう。客の投げ入れた札束の中で恍惚とした表情もなんともセクシーだ。

 『バーレスク』から『ギャングース』へ

前半はまるでクリスティーナ・アギレラのド派手な歌唱が名物の『バーレスク』のような女性ダンサーの成り上がり譚が描かれるが、中盤に差し掛かるところでムードが一転。本作、前半のお気楽イケイケのムードから、中盤のシリアス展開、クライマックスの泣ける展開まで、絶妙な配合なのもミソである。

バーレスク [Blu-ray]

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2008年に世界を襲った金融危機は、当然ストリップ業界にも暗い影を落とす。一度は低賃金の昼の仕事に転職してやりくりしていたデスティニーやラモーナだったが、結局は上手くいかず。覚悟を持ってストリッパーに復帰するが、ストリップ業界も閑古鳥だった。

そこで、彼女たちは取り返しのつかない、ヤバい方法に手を染めていく。不況で私達はこんなに苦労しているのに、なんでウォール街の男たちはあんなに涼しい顔しているんだ。あいつらがちょっとぐらい酷い目にあっても困らないはず…。格差が拡大していく社会の中で、ビンボー人たちが富裕層を狙った犯罪に手を染めていってしまう、という構図では、最近紹介した『ギャングース』に構図は似ている。

 

iincho.hatenablog.com

『パラサイト』と共鳴する瞬間

興味深いのは、デスティニーがインタビュアーに明かす夢の話だ。夢の中で彼女は気がつくと車の後部座席にいるが、走行中なのに車の運転席には誰も乗っていない。慌てて、自分で乗り出してハンドルを握ろうとするが、車を上手く操れないという。

貧困者の人生が「アンコントロール」であることを暗示するこの夢は、奇しくも、先月から公開され、ヒット中の映画『パラサイト 半地下の家族』とも共鳴する。

【映画パンフレット】パラサイト 半地下の家族 PARASITE

ソン・ガンホ演じる貧困一家の父親は「息子よ、何か“計画”があるのか」と尋ねるが、肝心のときになって全く逆のことを言う。「一番失敗しない計画は何か。それは計画しないことだ」。人生設計など最初からやっても無駄だ、という貧困者の諦念を描いたシーンだ。「貧困とはなにか」という点について、『ハスラーズ』と『パラサイト』は同意が取れている。それは、「貧困とは、自分の人生が自分でコントロールできない事態」ということである。

「私たち、最強だったよね」

カクカクシカジカがあった後、やはり計画は頓挫し、主人公たちは挫折と痛手を負う。心身ともにボロボロになったあと、ジェニファーがウーを抱擁しながら、こう確認する――私たち、最強だったよね。お前ら「EGG」ガールかよとスクリーンの向こうにツッコみたくなりながらも、目頭が熱くなってくるのはなぜか。

 

egg(エッグ) 2019 令和 (POWER MOOK 70)

そこには、明確な悪事ではあるが、男性社会に一泡吹かせてやった彼女たちにどこか痛快な気分で共感してしまうところがあるからだろう。

何もかもが失われたあとでも、友情だけは残る。それは誰にも奪えなかった。それだけに、それだからこそ、もし2人が生まれや境遇に恵まれていたら、そして、もっと早く出会っていたら、結末は変わっていたのに。そう思わざるを得ないやるせなさとともに、映画は幕を閉じる。

 

ジェニファー・ロペスにメロメロにされ、ジェニファー・ロペスに泣かされる。彼女が多面的な魅力を放つ快作だ。

まるでドキュメンタリーの緊張感 “異端であり正統”な震災映画『風の電話』

映画ノベライズ『風の電話』 (朝日文庫)

東日本大震災からもうすぐ9年が経とうとしているが、先週公開された『風の電話』は、異色の「震災映画」だ。

 

3.11で家族を失った女子高生・ハルが、叔母と暮らす広島・呉から、故郷の岩手・大槌までをヒッチハイクして帰るロードムービーである。道中でさまざまな人たちと出会い、ハルは、失っていた生きる意味を取り戻す。

 

印象的なのは、全編にまるでドキュメンタリーのような生の雰囲気が漂っていることだ。それもそのはず、メガホンをとった諏訪監督は「即興演出」という手法の使い手だそうで、ぼくは監督の映画は初体験だったが、基本的には台本がない、現場で即興で作られていく絵作りは、息を呑むような雰囲気を演出し、観客に、演者の言葉を1つも聞き逃せない緊張感を与える。

 

当然、演者にも負荷がかかり、力量が試されるこの手法だが、本作において特にインパクトがあるのは、震災で多大な被害を受けた福島出身の西田敏行。西田が演じているのは、福島に住む男性なのだが、軽妙に東北弁を操り、福島の扱いへの不満を述べる姿を見ていると、まるでそれは西田敏行なのか、西田が演じている男なのかがよく分からなくなってくる。

西田と同様にインパクトがあるのは、ハルと西島秀俊演じる元原発作業員が訪れる在日クルド人宅のシーン。出演しているのは、実在のクルド人の人々で、日本での苦労をとうとうと語る姿はドキュメンタリーのよう…ではなく、そこは本当にドキュメンタリーなのである。

また、こうした無茶な(?)な演出方法に柔軟に対応し、ヒロイン・ハルに息を吹き込むモトーラ世理奈のポテンシャルの高さにも舌を巻く。特にハルが、突然いなくなった家族と、家族を突然奪っていった津波に対して放つ怒りの咆哮は圧巻の一言で、痺れてしまった。

 
 
 
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フィクションとドキュメンタリー、本来交わらない2つのジャンルの間を架橋する本作。そうしたスタイルは、題材にも非常に合っている。そう思う理由は2つある。

1つ目は、これがロードムービーというジャンルであるためだ。ハルは道中、いろいろな場所に「寄り道」する。中でも、前述したような在日クルド人を尋ねるシーンは、本筋からかなり逸れ、すんなりとは飲み込みづらい。「俺は何を見せさせられているんだ」という気になってくるのだが、その「迷走」は、本作のドキュメンタリー性の部分を際さたせているし、いきあたりばったりの旅ってそういうものじゃんと思えてきて、かえってリアルである。

さらにもう1つ、本作が扱っている根底に、3.11という圧倒的な現実を扱っていることが大きい。

以前、園子温古谷実の『ヒミズ』を映画化した。その際、原作にはない震災を描写した件について、「仕方ないよね。あれだけ大きなことがあったんだから」と妙に納得してしまった記憶がある。

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そんな風に、震災は良くも悪くもクリエイティブにさえ多大な影響を与えた外傷的経験であり、それをまっさらな「フィクション」として人工的に再構築する方が不自然な行為に思えてくる。

フィクションであろうと、演者の姿の記録(ドキュメンタリー)なのだ。本作のメインキャストは、22歳のモトーラを含め、全員が大なり小なり震災を「経験」している。本作が、演者の身体に依拠する多大に「即興演出」という手段を通して「震災」を描くのは、アクロバティックなようでいて、実は正統な手段の気さえしてくる。

 

何はともあれ、今日は映画ファンが月で一番好きな1日、ファーストデーである。どれか1作観ておこうと思っていたとして、本作が候補にも入っていないとしたら、それはあまりにも惜しいことだ。

芸能人の不倫叩きは”アンフェア”だ

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芸能人の不倫が発覚して、ネット上でボッコボコになっている光景をみるたびに、つくづくアンフェアだなあという感情に襲われる。

そもそも、不倫について配偶者以外の第三者がガタガタ騒ぐことじゃない、という感情がある。

しかし、ここで書こうとしている「アンフェアだなあという感情」は、そうした「第三者がガタガタ騒ぐことへの違和感」とは別物だ。

 

「アンフェア」というのは、「そんなこと、誰も言ってなかったじゃん」ということだ。アコギな商売の代名詞である携帯ショップでさえ、わかりにくいなりにもうちょっと買う前にメリット・デメリットを説明してくれるだろう。一方、不倫バッシングについてはなんの最後通牒もなく、いきなりである。威嚇射撃もなくミサイルを撃ち込まれるようなものだ。

 

ちょっとわかりにくいかもしれない。

どういうことかというと、不倫でここまで叩くのなら、結婚したときにもうちょっと「そういうことへの留意」を持ち出す視点があってもいいのではないか、ということだ。結婚するときは「理想の夫婦だ」「本当におめでとう」「羨ましい」だなんだと祝福をしておいて、いざ不倫が発覚したら、手のひらお返して怒り散らすのが本邦の世論、マスメディアである。

 

以下が、2人が結婚したときの記事の一例である。

 杏と東出昌大の結婚式が4日、東京の愛宕神社で行われ、その際に撮影された二人の幸せショットの数々が反響を呼んでいる。同写真は、杏と親交があり雑誌での対談経験もある漫画家の渡辺多恵子が5日にTwitterで紹介したもので、白無垢姿の杏と紋付き袴を着た東出の写真は、まるでドラマのワンシーンを切り取ったかのようだ。

 杏と東出は2013年~2014年に放送されたNHK連続テレビ小説ごちそうさん」で夫婦を演じ、今年の元日に入籍。実生活でも夫婦となった二人の結婚式の様子は幸せそのもので、同写真を見たファンからは「本当にすてきな写真」「末長く幸せになってほしい」など二人を祝福するコメントが相次いでいる。(強調引用者)

 https://www.cinematoday.jp/news/N0077165

 

ほら、「一度結婚したら、他の人との交際が発覚した際に、とんでもない目にあいますよ」という説明はどこにもないではないか。結婚に対して人はポジティブな面しか見ない。引用する記事の問題かもしれないが、芸能人の結婚に際しては、たいていこうした「祝福ムード」が演出されるものだ。

不倫の原因は何を隠そう結婚である。結婚という行為自体に、そもそも不倫というリスクが内包されているのだ。

しかし、いざ不倫が発覚したら、恐ろしい「私刑」が待っている。結婚したときにあれだけ祝福していたのに。そのギャップについて、違和感があるのだ。

 

たとえば、以下のような記事があったら、納得できる。

 ファンからは「本当にすてきな写真」「末長く幸せになってほしい」など二人を祝福するコメントが相次いだ。
 一方で、結婚という決断を選んだ以上、今後2人は他の人との交際が発覚すると、バッシングされることが確実。そのため、ファンからは「そんなに安易に結婚して大丈夫なんですか?」という心配の声や、「もう二度と、他の異性と肉体関係を持たないということですね?」という確認の声、「すごい覚悟だ」という称賛の声が寄せられた。

 さらには、「もし不倫したら、絶対に叩きますからね?」「もし不倫なんかしたら、芸能界にいられなくしてやる」といった、見方を変えればただの脅迫でしかないコメントも散見された。

これぐらい結婚に関するネガティブな情報もあっていいはずだ。

結婚という入口の部分でやたら目尻を下げる人々が、不倫が発覚した途端、二重人格のように鬼の形相になる。

このギャップが、ぼくはただただ恐ろしいのである。

 

必見のドキュメンタリー『M-1アナザーストーリー』 「横の線」と「縦の線」の凄み

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見よう見ようと思っていた昨年の『M-1グランプリ2019』の舞台裏を追ったドキュメンタリー番組『M-1アナザーストーリー』をようやく観た。

M-1好き、いや、お笑い好きは全員正座して観るべきドキュメンタリーだった。今月26日まで観られる。

 

tver.jp

史上最多5040組がエントリーしたM-1グランプリの決勝戦は“史上最高レベル”と評される激闘となった。観客を爆笑させ、審査員をうならせたのは、王者ミルクボーイだけではない。
密着カメラが捉えたのは、わずか4分間の漫才に夢を馳せた“芸人たちの生き様”だった。

今大会の決勝進出組決定から、その9組+敗者復活組によって繰り広げられた本番、そして雌雄が決したあとまでを追いかけたドキュメンタリーである。

詳しい内容はぜひ観てほしいのだが、内容とは別で圧倒されるのは、制作のABCテレビM-1にかける思いがあらわれた「横の線」と「縦の線」である。

 

ミルクボーイが優勝したので、もちろん彼らがドキュメンタリーでも主軸になるのだが、番組のカメラはまるで「ミルクボーイが優勝するのをはじめから分かっていた」かのように、彼らを取材している。

これはどういうことかというと、何もM-1八百長を告発したいのではない。

優勝候補にあげられるでもない、全国区ではほぼ無名だったミルクボーイを優勝前から丹念に取材していた、ということは、裏を返せば残りの(敗者復活組を除く)8組についても同じぐらいきちんと取材していた、ということが伺える。

たった40分の番組であり、ミルクボーイのパート以外のほとんどの素材は使われていないはずだ。ミルクボーイの優勝までのストーリーを鮮やかに浮かび上がらせたように、ほかの8組が優勝していたとしても、それは可能だっただろう。

9つのうち、8つの取材がほとんど使われない、と分かった上で、ABCテレビは取材クルーを各コンビに回させたのである。

この番組を観て、まずこの「横の線」の強さに驚かされる。

 

一方、「縦の線」とは何か。それはこれまでのM-1の歴史に関係する。

この番組を観ていくと、横線以上に驚かされるのは、ミルクボーイの2人がまだ学生だった2006年のM-1予選に出場したときのインタビューも使われていることだ。つまり、ABCは10年以上前の無名の学生の映像もアーカイブしていたのだ。

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2006年だけではない。番組では2006年から2010年、中断を経ての2015年からのミルクボーイの映像も流された。

この「縦の線」の貴重さの度合いは、「横の線」のそれを遥かに凌駕するのは誰にでも分かるだろう。もう誰も今から「2006年のミルクボーイ」にインタビューすることはできないのだ。かまいたちのネタではないが、「時間の壁」に守られているのである。そして、アーカイブしておく手間、コストもはるかに大きいことが推測できる。

 

2006年の取材をしたスタッフたちの意図は分からない。

しかし、そのスタッフたちが「2006年のミルクボーイ」「2007年のミルクボーイ」…と撮りだめていった映像が、時を経て昨年2019年に意味を持った。ひとつひとつでは心もとない点と点が、昨年末についに一つの強靭な線になる。そのプロセスを知ると、一種の感動を覚えてしまう。

 

こんなことを言うのはあれだが、「2006年のミルクボーイ」を撮った人はおそらく、彼らに特別な思い入れがあったわけではないだろう。

いや、正確には、「彼らに“も”思い入れがあった」というべきか。

おそらく、膨大な映像資料を撮りだめ、廃棄することなく保存していた背景には、漫才の頂上決戦という崇高な頂きに登ろうとしている意志を表明した者全員への、ある種の敬意があるのだと推測する(ちがったらすいません)。

 

今年のドキュメンタリーで使われなかった素材も、もちろん「死蔵」したわけではないはず。来年、再来年、もしかしたら3年後、使われるときを待ちながら眠っているのだろう。紡がれるべき次のストーリーを求めて。

「大人の不在」を通じて『ギャングース』が描く日本の残酷な真実

ギャングース

ギャングース

ギャングース

  • 発売日: 2019/06/05
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一昨年、見そびれて一番後悔していた映画『ギャングース』。『サイタマノラッパー』シリーズの入江悠監督作だが、先週末、アマゾンプライム・ビデオで100円レンタルとなっていたの目ざとく見つけ、ついに鑑賞した。

 

地方の寂れた郊外(と思しき風景)を舞台に、恵まれない環境で育ち、犯罪に手を染めるしか生きるすべがなかった若者たちの姿を描くクライムムービーだ。

 

期待通りの快作だったが、本作が卓越しているのは、一見すれば「恵まれない若者たちが知恵と友情で危機を打破しようとする青春クライムムービー」の様相を呈しながら、極めてアクロバティックな方法によって、日本の病巣といえるものにメスを入れていることだ。そのアクロバティックな方法とは、「そこにいて当然のある存在をあえて描かないことによって描く」という方法だ。

順を追って説明しよう。

 

少年院で出会ったサイケ(高杉真宙)、カズキ(加藤諒)、タケオ(渡辺大知)は、犯罪者の収益(アガリ)を強奪する「タタキ」を生業にしながら、廃バスでほそぼそと生きながらえている。

 
 
 
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しかし、タタキでせっかく稼いでも情報屋の中抜きにあって手元にはほとんど残らず、3人の生活は貧困の底まま。そんなとき3人は、地元の振り込め詐欺グループが悪用する被害者リストを入手。底辺の暮らしを抜け出すため、それを元手に詐欺グループのアガリをタタキ大金を稼ぎ始める。


金子ノブアキの“名演説”

彼らがタタキの標的にする半グレ集団の“カンパニー”を統括しているのが、金子ノブアキ演じる加藤だ。高杉、加藤、渡辺が演じるメイン3人の好演もさることながら、金子演じる加藤が本作では極めて印象的な役割を果たす。

 
 
 
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彼が“カンパニー”の部下たちに向かって放つ“名演説”が、本作の大きな見せ場の一つだ。

その演説は、下記の予告動画に収録されており、ぜひ観てもらいたい。そして、まだ本編を観ていない人でこの演説に心打たれた人がいるならば、ぜひ、本編を鑑賞してからこの評論に戻ってきてほしいものだ。

 

 

この国から金がなくなっちまったのか?

あるんだよ。あるところにはあるんだよ。日本銀行、ちゃんと紙幣刷ってんだからさ。じゃあどこにあるのか? 

はいここ! 高齢者のみなさんです。こいつら、バブルで調子乗りまくって、国の借金を俺ら世代に廻しやがったくせに平均預金額はなんと二千万。不動産なんか入れるともっと抱え込んでるぞ。

だから俺はね。老後にこうやってふんぞりかえってるじじいばばあから、たったの100万200万をいただいたところで、ちっとも心が痛みませんよ。むしろその金、どん底から抜け出せねえお前らみたいな若えやつらに還元してやんだよ。社会に流通させて経済活性化させてやってんだよ。

言っとくけど、政治家のクソ野郎は何もしてくれねえからな、ボンボンの、二世三世のゲロ野郎どもがよ。生まれたときから金持ってる連中は、底辺からデッパツ(出発)してる俺らみたいなクソゴミのことなんてマジでどうでもいいんだよ。

だから俺たちは、てめえ一人ひとりでがんばんだろ。自力で、死ぬ気で、てめえの足で腕で顎一本で、超キツイ生存競争を生き残っていくんだろ。

 

加藤が訴えるのは、日本で今なお進行過程にある世代間格差への怒りと、それに見向きもしない国家への不信感。だからこそ、自分達は底辺の人間は自力で、人を騙してでものし上がっていくしかない、その過程で多少被害にあっても高齢者は痛くもかゆくもない、それぐらい格差は拡大しているのだから…というのが彼の理屈である。

加藤のカリスマ性すら帯びたこの“演説”。その内容をまっすぐに肯定することはできないが、金子の名演を伴って、不思議な高揚感、感動すら覚えてしまう危うい魔力を放っている。

「搾取」の入れ構造

紆余曲折を経て、サイケたちは加藤のさらにその上、全国の組織を束ねる頂点、「六龍天」の安達(MIYAVI)にたどり着く。そして、彼のアガリを強奪する、というミスれば死よりも恐ろしい結末が待つであろう壮大な一発逆転のギャンブルに打って出る。

 
 
 
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ところがここで、ちょっとしたどんでん返しが起きる。部下の加藤が安達を裏切るのだ。

彼は安達が受け取るはずだった組織のアガリを、サイケたちの襲撃に乗じて奪う。実は彼も、サイケたちと同じく、安達を相手にタタキを狙っていたのだ。

加藤の企ては海外逃亡寸前のところでバレてしまい、加藤は安達によって殺されてしまう。殺される直前、加藤はまたしても印象的なセリフを、今度は安達に向かって吐き捨てる。

下は死ぬまで搾取されるか、いつかパクられる(筆者注:逮捕される)かじゃねえか。弱え奴にリスク被せるだけ被してよ。オモテの奴らと何も変わらねえ。ふざけんじゃねえぞ。

ここ彼が語っているのは、実は前半で彼がホワイトボードを前に、自分の手下たちに向かってしていた演説の「下の句」の部分といってよい。

先の“演説”で加藤は「世代間格差」を告発していた。

一方、死ぬ間際に血まみれの状態で彼が語っていたのは、“カンパニー”といった犯罪組織のヒエラルキーの中で上の者が下の者を搾取する構造だ。前者が「マクロな搾取」だとしたら、後者は「ミクロな搾取」といえよう。

思えば本作では、大小様々な搾取構造が複雑に入り乱れ、多層化している。世代間の搾取、強い者から弱い者への搾取、親から子どもへの搾取、雇う者から雇われる者への搾取、知る者から知らない者への搾取、男から女への搾取…。その搾取は下流にいけばいくほど、苛烈を極めていく。

本作が描く真の「悪」とは?

最終的に、サイケたちは3人は、本作は搾取の頂点といえる安達を倒し、一件落着したように思わされる。

しかし事件後、ニュースを読むがアナウンサーの声により、安達が幼少期から虐待を受けていた、ということが知らされる。実は安達自身も幼少期から恵まれない、加藤であり、サイケたちと似たような境遇だったのだ。

つまり安達が、半グレ組織のトップにいたのは極端にいえば偶然であり、安達の座に座るのは加藤でも、サイケたちでもありえた、と言える。

 

本作における真の「悪」はなにか。それは今観てきたように安達ではない。

それは、安達を、加藤を搾取する側に回らせ、サイケたち3人がタタキをせざるを得なくなった環境そのものといえる。そう、加藤が演説で言った「超キツイ生存競争」そのものだ。

 

では「超キツイ生存競争」という環境をこしらえたのは誰か? 彼らをそうせざるを得なくしたのはだれなのか?

ここでようやく、冒頭の問いに戻ってくる。その存在こそが、本作があえて「描かない、という方法で描いた存在」。それは何を隠そう、「大人」のことなのだ。

本作は確信犯的に「大人」を登場させようとしない。子どもたちが信頼できる親や教師、警察から政治家まで、本作には「大人」が誰一人出てこないのだ。

「大人」の不在が意味すること

ここでいう「大人」とは、「子どもに手を差し伸べ、良き道へと導くメンター」の存在である。

もちろん、加藤や安達は年齢上は成人しているし、サイケたちだって成人か、もしくはそれに近い年齢だろう。しかし、彼らは「大人」ではない。「大人」になる前に「壊れてしまった子ども」たちなのだ。

最も象徴的なのは、サイケたち3人が出会う少年院の乱闘シーンだろう。洋画ではこうしたシーンですぐさま刑務官が止めにくるのが「あるある」だが、サイケたちを止める刑務官は一切登場しない。

また、サイケたちの作戦を助けるトラック野郎(勝矢)が、唯一その「大人」の候補としてあげられるが、彼はサイケらの犯行の支援者にすぎず、サイケらの頼れる「大人」とは呼べない。

 

本作で安達を、加藤をそしてサイケたちを悪の道に向かわせたのは、「大人」の不在なのだ。

このメッセージは、「大人のせいで子どもが悪の道に落ちた」という単純なメッセージ以上に恐ろしい。何しろ、「大人」たちは本作で起きた事の顛末を最初から最後まで全く「見ていない」。本作における「大人」たちにとって、「子ども」らが生きようが死にようが、成功しようが失敗しようが、加藤の言う通り「どうでもいい」のである。

 

 
 
 
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最後に登場する「大人」の意味

いや、正確にいえば、「大人」はラストシーンになってようやく出てくる。

場面はラーメン店。サラリーマン風の2人組が週刊誌片手に事件の顛末について語っている。そしてこういうのだ――「生い立ち悲惨なやつが全員犯罪者になるわけじゃない。自業自得」。

肝心なときにそこにはおらず、あとからやって来て手垢のついた自己責任論で「子ども」の不始末をなじる。

サイケ、カズキ、タケオがゲラゲラ笑って幕を閉じる軽やかな終幕と裏腹に、本作が最後に用意した日本の「大人」たちへのメッセージは、極めて辛辣である。

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千鳥『相席食堂』が伝える“ロケ番組”の奥深さ

2019年7月23日放送 

千鳥の『相席食堂』がおもしろいんじゃあ…。アマプラで3周目に入ったんじゃあ…(ここまでVCノブ)。

 

ABC朝日放送で、毎週火曜の深夜に放送中のこの番組。すでに昨年2月期のギャラクシー賞を受賞しており、テレビ好事家からしたら「何を今さら」という物件ではあるのだろうが、それにしても昨年最も見入ってしまった番組といえばぼくにとってはこれだろう。

 

毎回、「旅番組」の体裁をとって、ゲストがときに故郷を、ときに縁もゆかりもない地を自由気ままに散策する。ルールはただ一つ、道中に見つけた飲食店で遭遇した一般客と「相席」することのみ。

 

肝心の千鳥はというと、ロケには一切参加しない。スタジオで2人がそれぞれ1ずつ、「ちょっと待てぃ!」という音が出るボタンを持ち、どちらか一方でも押すと、VTRは強制的に止められ、スタジオで2人がロケに対してツッコんだり、イジったり、ときには批判する。

 

ロケのVTRを止めるこうしたシステムは、例えば『笑神様は突然に…』(日本テレビ系)など先行する番組にもあったが、『相席食堂』最大の特徴は、ロケをしている側には弁明の余地は与えられないことだ。

「ロケをした人」と「ロケをモニタリングする人=千鳥」の完全なディスコミュニケーション。千鳥からロケへの一方的な言及によって、この番組は「ロケ“批評”番組」の様相を呈すことになる。

 

スタジオからの一方的なツッコミは、見方によっては「欠席裁判」であるし、ともすれば視聴者が不快感を催す恐れもある。しかし、千鳥がやれば不快どころか面白くなってしまうのは、そのツッコミがロケでのし上がっていった「ロケ番組の鬼」ならではのノウハウに裏打ちされたものだからだろう。

この番組を見ていると、テレビのロケとはさまざまな要素が複雑に絡みあった複合体であることが分かる。

場をつなげるトーク力や、予想不可能な言動をとる一般人への対応力、食べ物が出てくる番組では食レポでの表現力も要求される。何が起きるか分からない場面ではハプニングへの対応力も求められるだろう。さらに、天気や動物といったアンコントロールなものを相手にする場合は、運の強さも求められている。

このように、ロケとはそのタレントがさまざまな分野で試される、総合格闘技のような仕事なのだ。

 

また、コンテンツとして、ほとんどすべての回が面白いことも特筆すべきだ。

例えば、ジミー大西蛭子能収やくっきー!がロケをする回なら、誰がどう考えても面白くなることが期待できるだろう。

一方で、山下真司高橋ジョージ、夫婦お笑いコンビかつみ・さゆりの(さゆりでなく)かつみの回などは、個人的には本来まったく琴線に触れない。よくある週末の夕方ぐらいに流れているロケ番組なら、完全にスルーしていただろう。

しかし、彼らのロケも、千鳥がスタジオからどこがどう面白くないか、つまらないかということをこんこんと指摘していき笑いに変えてしまう。2人で営む野村再生工場のようなもんである。

 

また、未知数のタレントを使い、その意外なロケの才覚を発見するのもこの番組の醍醐味だ。誰がくまだまさしがロケ巧者だと予想できただろう。誰が、獣神サンダーライガーのロケの安心感を予知できただろう。

 

人気にともない放送時間も拡大し、番組後半では新しい企画も展開されているが、千鳥が人のロケを批評する、という番組の屋台骨だけは変わらない。当分はぼくにとって目が離せない番組であり続けるだろう。