いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

史上最高の「M-1」は優しさに満ち溢れていた

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終わった直後から「史上最高」との呼び声も高かったことしの「M-1」。

隠れキーワードは「優しさ」だったと思う。

 

和牛を破って最終決戦の3組に滑り込んだぺこぱは、ツッコミという概念を優しくシルクの布でくるんで別物にしてしまったような産物だ。あの田舎のボンボンのような見た目のシュンペイのボケを、ホストなのかヴィジュアル系なのかまだキャラが定まっていない松陰寺太勇がツッコむ、かと思いきやふと立ち止まり、思慮し、認めてしまう。新しい、新しすぎる。また、松陰寺に関しては下手な演歌歌手を凌駕するそのキャラの“苦節っぷり”がにじみでていて、否が応でも応援したくなってしまう。

 

そして、シンデレラボーイになったミルクボーイも、キモは「優しさ」ではなかったか。ボケの駒場孝の言わんとしている「なにか」を、昭和からタイムスリップしてきたかのようなビジュアルのツッコミ・内海崇が「○○やないか」「○○ちゃうやないか」といったりきたり。われわれ観客は、「コーンフレーク」でありながら「コーンフレークならざる何か」という「空集合」に釘付けにされる。

結局あれは、コーンフレークだったのかどうか、最後までわからない。とにかく言えることは、我々はおそらくコーンフレークをもってしてここまで笑わされるのは、後にも先にもこの日だけだっただろう。
しかし、あの漫才を受け入れられやすくしている土壌は、あの内海の角刈りと渋い色のスーツという昭和のおっさんビジュアルと、関西のおばはんのような物言い、つまり「懐かしさ」という「優しさ」である。

なお、筆者はミルクボーイの予選動画ですぐに「こ、こいつらやばい」と気づき、10本ぐらいネタを公式動画を漁った。すべて「やないか」「ちゃうやないか」という同じパターンなのだが、結構毒っ気の強いものもある。それらを避けて、「コーンフレーク」「最中」の比較的優しめな2本を選んだことも勝因だったのではないか。

 

そして、今回はM-1全体が「優しさ」に包まれていたとかのように思える。これは2015年~の新生M-1には特に感じてきたことだが、出場者も審査員をはじめとする出演者も、みなが「テレビ番組」として、協力的であることに毎度のことながら感動を覚えてしまう。例えば今回でいえば、トップバッターのニューヨーク屋敷が「笑いながらツッコむのが好みではない」というダウンタウン松本人志の指摘から、さまざまな笑いへと展開されていった。みな、芸人人生を駆けたネタ披露の直後なのに、各出演者がいろんな絡み方をして笑いをとっていく。大会開始からしばらくあった、「ある意味面白いけど、万人受けは絶対しない殺伐とした雰囲気」はどこにもない。

 

そこに、「史上最高」と言われても過言ではないレベルの高いネタが出揃った。
 
今回のM-1が「史上最高」と謳われるとしたら、「テレビ番組」というコンテンツとしての成熟、そして出場者らの質の成熟が、タイミングよく同じ大会で相まみえ、そしてそこで、ほぼ無名だったニュースターを誕生させた、ということにあるのだろうか。

 

何より、見終わったあとに今まで以上に漫才という文化が好きになり、見た者だれもが、漫才について誰かと語りたくなる。


もちろん、民放のテレビ局が開催している以上、営利目的であることは大前提である。

しかし、大会前、大会中、そして大会後のSNSなどでの盛り上がり、メディアでの報道規模を見れば分かることだが、一局の利益は軽く超えるほどの影響力、そして貢献度であることは言うまでもない。

漫才が何かの集団になっているわけではない。漫才のための漫才大会。今年のM-1の優しさが向けられているのは、何を隠そう漫才に対してなのである。

クロちゃんに感じる人間に対する“誤解”

クロか、シロか。 クロちゃんの流儀

 
今週の『水曜日のダウンタウン』SPにて、自分がプロデュースしていたアイドル候補生のカエデちゃんに告白し、フラれた安田大サーカスのクロちゃん。大いに笑わせてもらった。
 
何がすごいって、彼はフラれたあとに「説得」を試みようとするのである。
 
「待って待って! 嘘でしょ!?」
「冗談だ? あー冗談だ?」
「カエデの初めていっぱいもらったじゃん」(スタジオ悲鳴)
「待ってよ、落ち着いて?」(スタジオの面々「お前や」)
「お願いします! ほんっとに付き合ってください」(カエデ「ごめんなさい」)「なんでぇ!?」
(声色を変えて)「もう縁切るよ?」
「ペンダント返してよ!」からの「(あっさり返されて)本当に返すの? (崩れ落ちて)返すやつあるか!」など、見返して書き起こしていても呼吸困難になってしまうほど笑ってしまう。

昨年の同じ時期にも「MONSTER HOUSE」内で同様の光景が展開されていたが、まじで来年の「R‐1ぐらんぷり」、マネキンでも相手役に置いて「フラれ漫談」として出場してほしいぐらいだ。それぐらい芸として確立しつつある。
 
ぼく自身は実は、クロちゃんについて巷で言われているほどの嫌悪感を抱いていない。そのヘドが出るような言動、何食ったらそうなるんだという考え方にむせ返るときもあるが、基本的には「まあ、そういう人も世の中にはいるよ」というスタンスだ。
 
それはもしかしたら、同郷のせいかもしれない。ぼくと同じ広島出身のこの荒ぶるスキンヘッドは、負の県民栄誉賞をもらってもいいぐらい、存在そのものが広島のネガティブキャンペーンとかしている。
 
そんな彼の一見標準語に聞こえる言葉のふしぶしに、実は、九州方面でも関西方面でもない広島弁独特の「なまり」がかすかに残されている。それはおそらく広島出身者しか気づけないと思われる。そのかすかに残る広島弁の風味が、ぼくの共感を誘っているのかもしれない。
 
閑話休題
 
しかし同時に、今回の放送で、ぼくはこれまでのクロちゃんへの共感とは別に、人間理解について彼とは大きな断絶があると感じた。それがまさに冒頭から述べている「説得」についてである。
 
クロちゃんとぼくでは、「人は変えられる」と、「人は変えられない」というちがいがある。
 
クロちゃんが死にかけのタコのようになってまで、カエデちゃんを「説得」しようとした背景には、「人は(自分に都合よく)変えられる」という淡い希望があるはずだ。そうでなければ人間、死にかけのタコのようになってまで人の「説得」は試みない。
 
対するぼくはそうではない。人間は変えられないと思っている。中には変えられる微細な部分もあるだろうが、根本的な部分で人は変えられないと感じる。

だから説得を試みたところで無駄である、と考えてしまう。自分がクロちゃんの立場だったとしたら、フラれてショックは受けるだろうが、あっさりと身を引いてしまうことだろう。そこでゴネたところで、何も生まれないからだ。だから死にかけのタコみたいにはならない。
 
『水ダウ』でこれまでさまざまな角度からその酷さに脚光が浴びてきたクロちゃんであるが、このように「熱意を持って説得すれば人は変えられる」という素朴な人間理解も彼が有していることを指摘しておきたい。
 
あるいは、こういうことも言える。
 
人間社会は「贈与‐反対給付」でできている。人から贈り物をもらったら(贈与)、自分もお返し(反対給付)をしないと悪いような気がする。そういう「負い目」があるからこそ、この社会は成り立っている。

しかし、愛情は別である。こんなに愛しているのだから、こんなに尽くしているのだから、相手が愛してくれる…とは限らない。いや、もしかしたら相手だって愛し返したいかもしれない。でも、愛情が湧いてこないことには仕方がない。
 
とっておきのデートをエスコートした後の告白で、あっさり自分をフッたカエデちゃんに「なんで!? なんで!?」と信じられない様子で問い続けるクロちゃんは、愛情も「贈与‐反対給付」の経済圏にあると考えているといえる。
 
愛情は基本的には片道切符であり、戻ってくることを期待してはならない。
 
人は変わらないし、人に期待してはいけない。
同郷のよしみで、クロちゃんにはそのことを教えてあげたくなった。

【ショートショート】多夫多妻の世紀

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 1日の仕事を終え、スズキは安堵のため息をついた。彼がこの物語の主人公である。
 
 帰り支度をしていると、隣の席の同期タナカが「お、今夜は2号さんのところですか?」と声をかけてきた。
 
 これを読んだ21世紀のあなたは、なんて不躾な会話をするんだと憤慨したかもしれない。しかし、この物語は22世紀が舞台。22世紀にもなれば、これが日常会話なのだ。
 
 「いや、今日は金曜日だから4号の家なんだ」
 「あ、そうだそうだ。忘れてた」とタナカが返す。
 
 するとそこに、これまた同期のハラダが通り過ぎようとしているのが目にとまる。
 
 「お、今日は珍しく早いね」、スズキがハラダに声をかける。
 「フフ、実はね。今日は新しい彼氏とデートなの」
 「え、じゃあ…」
 「うん、もし相性が良かったら、3号の夫にしようかなって…」

 

 

 22世紀。世は一夫一婦制、ならぬ一夫多妻制、でもなく、多夫多妻制になったのである。
 
 ここからは順を追って説明しよう。

 21世紀も後半になると、日本の晩婚化、少子高齢化はついに最終局面を迎え、人口は2000万人まで激減。政府や有識者がけんけんがくがく議論した結果、たどり着いたのが多夫多妻制度だった。

 日本人の生き方の多様性が進み、そもそも一夫一婦制という制度が窮屈になっているのではないか。もし、人それぞれがそれぞれに合ったライフスタイルで、いろんな人と結婚できたなら、結婚する人が増えるのではないか。それが制度の理論的支柱だ。

 そんなバカな、と思われるかもしれないが、結論から言うと、多夫多婦制度は日本を救った。制度によって婚姻数は激増するとともに、出産数も激増。22世紀なかばには、日本人口は4億人に迫る勢いである。

 独身でいることはそれまで通りもちろん許されたし、一夫一婦制をつらぬきたいという人ももちろんいたが、今やほとんどの日本人は2人以上の配偶者を抱えているのが現状だ。

 なお、会話で家族の話をするときはややこしいので、タナカのように2号、3号、4号…などと結婚した順に番号をつけて呼ぶことが通例となった。20世紀の古臭い家父長制の中で婚姻外のいわゆる愛人を「2号」と呼ぶ習わしがあったらしいが、22世紀の現代では、男女を問わず、誰もが誰かの2号、3号である可能性があるのだ。

 なお、多夫多妻制度に反対運動は起きなかったのかというと、これが意外なことに起きなかった。21世紀前半までに一定数いた古い家族像を頑なに固執する政治的保守層は、その頃にはほとんどが死に絶え、もしくはヨボヨボの老人しか残っておらず、反対する元気もなく、制度はスムーズに施行された。

 

 なお、この物語の主人公スズキには現在7人の妻がいる。ちょうど割り振れるということで、7日間の曜日ごとに各妻と会う日を割り振っている。これが非常に分かりやすく、スズキ自身は今の妻7人との生活を気に入っているようだ。

 退社し、妻4号の家にたどり着いたスズキ。玄関を開けて「ただいま。ショウゴ、お父さん帰ったぞ」とリビングの方に声をかけると、奥から5歳ぐらいのやんちゃ盛りの子どもが駆けてきた。スズキは抱きしめて頭をなでてやったが、ふと違和感に気づいた。

 

 「お前、ショウゴでなく、さてはミツルだな?」
 
 イタズラをバレてキャッキャと笑うミツルとじゃれ合っていると、今度は奥から本物のショウゴが現れ、スズキはこちらも抱きしめてやる。
 
 ショウゴはスズキと妻4号の子どもだが、ミツルは妻4号とその2号、つまり妻が夫2号との間に設けた子どもなのだ。妻4号にとって、スズキは夫3号である。ショウゴとミツルは年子で、なおかつどちらも妻に目元がそっくり。つまり顔も背格好も2人はよく似ており、スズキは度々間違えてしまう。ショウゴとミツルはそれを逆手に取ってイタズラをスズキにしかけたのである。
 
 妻4号は料理が得意なので、スズキが帰る日は一緒に料理を作るのが一つの日課だ。 
 食卓には親と子ども、合わせて6枚のお皿がならぶ。スズキの妻4号はショウゴ、ミツルのほかに2人の娘がおり、彼女らはどちらも別々の夫との間にできた子どもだ。なお、長女のアカリの父親は、スズキの妻4号の夫1号、もとい、元夫1号で、2人はすでに離婚している。 
 スズキは実の子であるショウゴだけでなく、ミツルやアカリといった血のつながらない子どもとも分け隔てなく接する。それができるのが、この時代の大人の甲斐性とされている。

 

 スズキたち一家が夕食を食べながらテレビを観ていると、ある資産家の妻がシガ県の人口を超えたというニュースが終わったあと、今度は事件のニュースに切り替わった。
 
 「続いては、メグロ区で男性が殺害された事件の続報です…」
 
 「なんだ。まだこれ、やっていたのか。これって結局、妻の誰かが殺ったって話で終わったんじゃなかったんだっけ?」スズキが聞く。
 すると妻4号が眉をひそめ「ちがうのよ、これ、妻でなく、妻“たち”だったの…」
 「え…」
 
 ニュースによると、殺害された男性は妻8人と結婚していたらしい。8人もいるのに、妻たちは男性に全く不満をもっていなかった。それだけ、男性には甲斐性があったのだが、事件ではそれが仇となってしまった。

 男性の愛に溺れてしまった8人はそれぞれ、男性を自分だけのものにしたい、という独占欲にかられてしまった。8人は平和的に話し合いを重ねたそうだが、「私だけのものにならず、こんなに辛い気持ちを抱えるぐらいなら、いいわ。みんなで彼を殺して思い出にしましょう」という話がまとまってしまい、共同で夫を殺してしまったという。
 犯行時には、お互いがお互いのアリバイを融通し合うことで、警察の捜査をかなり困難にさせたようである。

 


 次の月曜、スズキが会社に行くと、オフィスの一角に人だかりができていた。
 スズキが外側からのぞきこむと、人だかりの真ん中で、後輩のヤマダが、あろうことか上司のサトウと取っ組み合いの喧嘩を始めているではないか。
 
 スズキはあわてて、近くにいたタナカに理由を聞く。
 
 「あの2人、同じ奥さんが1人いただろ?奥さんにはすでに別の夫との子どもが2人いて、もうそろそろ復職したいらしい。んで、『産むのはあと1人にしたい』って言ってるらしくて、その後1人をどちらが産んでもらうかで揉めてるようなんだよ」とタナカ。
 
 ヤマダは顔を真っ赤にして「あんたは俺よりあとに夫になったんだろ! 会社での関係がどうあろうと、先着順でゆずるべきだ!」と訴える。一方、ヤマダに鷲づかみされたカツラがとれかかっているサトウも負けじと「そんなことは関係ない。私はあの妻との子どもがほしいんだ」と言い返し、一歩も引く様子がない

 2人が大喧嘩になっていることで、スズキのここ最近起きていた出来事にも合点がいくところがあった。以前は仲が良かった2人だが、最近は社内でも些細なことでいがみ合い、うまく行っていないようだった。あれはきっと、妻からもう1人しか産まないと言われたあとだったのだろう。
 
 そのとき、スズキとタナカのそばを、すこしくすんだ人影が通り過ぎた。

 タナカが「あ、『ZERO』…」と口に出し、しまったとばかりに慌てて自分の手で口を押さえる。「おいお前、本人の前だぞ…」、スズキもタナカをたしなめる。
 
 多夫多妻制が敷かれた現在も、結婚しない人がいることは先にも説明した。しかし、独身であるにしろ、「結婚をあえてしない」のと、「結婚できない」の間には100万光年の差がある。
 
 いくら世の中が多夫多妻制になろうと、箸にも棒にもかからない、配偶者0人の人は存在した。いつしか、そうした人々のことを社会は「ZERO」という蔑称で陰で呼ぶようになったのだ。
 
 スズキとタナカの前を通り過ぎたのは、初老の「ZERO」。自分が「ZERO」と呼ばれたことに気づき、スズキたちのほうを悲しそうに一瞥をくれたが、何か言い返すようなことはせず、自席の方にトボトボと歩いていった。後ろ姿からでも、頭髪が薄くなっているのがよくわかる。彼は仕事もとりたててできるわけではない。むしろ会社の「お荷物」の側面すらある。定年まで、ずっと席を温めておくつもりなのだろうか。

 

 多様性の名の下、22世紀が生きやすくなったと言えばそうとは言い切れない。なぜなら多夫多妻の時代、「ZERO」みたいに売れ残ってしまう人はよりいっそう、「それでも結婚できない」という意味で、人間的な魅力の“なさ”が際立ってしまったのだ。

 


 スズキは自分の席につくと、ふとさっきのヤマダとサトウの喧嘩について思いを馳せてみる。金曜にみた殺人のニュースにしろ、ヤマダやサトウにしろ、スズキからしたら古臭い価値観に囚われた世迷い言だとしか思えなかった。
 
 今の時代、家族は所有するものではないのだ。所有という概念は遠い昔に消え去った。それに彼らは早く気づくべきだ。
 
 概念の消失といえば、22世紀になったら「きょうだい」の概念も消えつつあるかもしれない。
 
 
 そのとき、スズキの端末にコバヤシから着信があった。
 
 「スズキさん! お久しぶりです。最近どうですか? 今度飲みにでもいきましょう」
 
 コバヤシはもともとは取引先の社員だったのだが、一度会食した際に、実はスズキと「家族」だったことが分かり、それ以来、仕事以外でもたまに交流を持つ間柄になっている。
 
 どういう家族かというと、コバヤシの父親の妻3号がスズキの母親の夫6号と一時結婚していたことがあり、また、スズキの父親の妻8号が昔結婚していた夫3号の弟が、コバヤシの母親の夫5号だった、ということが分かったのだ。
 
 この時代、異母兄弟、異父兄弟が当たり前であり、「きょうだい」という概念は急速に意味を失われていった。言うならば、「きょうだい」と「友人」の中間の、新しい人間が劇的に増えたのである。
 
 コバヤシと週末に飲みに行く約束を取り付け、端末を切ったスズキは仕事を始めるまえにふと物思いにふける。
 かつて「人類みなきょうだい」と言った偉人がいるというが、22世紀になってそれは修辞などでなく現実になったのだ。

 ただし、「ZERO」をのぞいてだが。

映画『家族を想うとき』が描く「自由な働き方」の欺瞞

映画チラシ『家族を想うとき』5枚セット+おまけ最新映画チラシ3枚 ケン・ローチ

 ケン・ローチ監督については前作『わたしは、ダニエル・ブレイク』が、かなり精神的にまいるような内容でオススメだ。今作も身構えて観に行ったが、期待通りというのか予想通りというのか、かなりヘビーな一作であった。

わたしは、ダニエル・ブレイク (字幕版)

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  • 発売日: 2017/09/06
  • メディア: Prime Video
 


 ローチ監督は、『わたしは~』で引退するつもりだったらしいが、作品のリサーチの際に、「もう一つ、撮らなければならないテーマが見つかった」と気づき、本作を撮ったという。見終わった今にして思うのは、この監督の「撮らなければならない」という決意は間違っていないと思うし、世界の多くの観客の目に触れなければならない映画だと言える。

 

 主人公は、ニューカッスルのある貧しい四人家族。父のリッキーが、マイホームを購入するために一念発起し、運送業フランチャイズになることを決意する。しかしそれが思惑から外れ…という展開だ。

 これまでの監督の作品と同様、ミディアムショットを多用し、音楽はほとんど使わない。シンプルで飾らない絵作りで、ともすればドキュメンタリーのような雰囲気。そうであるがために、真実味があってズシンと響く内容になっている。

 

 本作が強く印象付けるのは、「自由な働き方」という名の欺瞞である。


 リッキーは、運送会社に「転職」したわけではない。あくまでフランチャイズだ。フランチャイズについては映画の冒頭で、会社側の担当者マロニー(こいつがストーリーが進むにつれて怖い本性を現してくる)が裁量の自由を謳い、理想の働き方のように喧伝する。働き次第で稼ぎは増え、もうけは全て自分のものとなる。リッキーが今からなろうとしているのは、会社と対等な「一事業主」なのだ、と。
 しかし、蓋をあけてみれば、リッキーは10時間以上働き詰め。トイレなど行っていたら指定の時間帯に間に合わない。遅れれば制裁金をとられてしまう。そのため、おしっこは「尿瓶」にする始末。それだけではない。就業中の怪我の治療は自己負担で、配達に不可欠な高価な機器を壊せば信じられない額の弁償代を請求される。

 キツいならばやめればいい。と、思うかもしれないけど、リッキーは参入する際に、妻の出勤用のトラックを売り払った頭金で運送用にトラックを買ってしまった。そのローンも残っている。簡単にはやめられない…。実質は会社の下請けであり、立場は限りなく弱いのだ。

 

 「フランチャイズ」という用語については、コンビニの24時間営業問題などで本邦でもここ数年、悪いイメージがつきまとっている。それはイギリスでも同じなのかもしれない。リッキーがフランチャイズになったのはあくまでも彼自身の自由な選択によるものだ。しかし、貧しい人たちに残された選択肢は、そもそもが「貧乏くじ」であることそして、その選択の結果については「自己責任」として幕引きがなされる。そのことを本作は痛烈に描いている。
 一度狂った家族の歯車は、容易には戻らない。貧しい家庭には、戻すための支援の拠り所がなければ、戻すことに手をこまねいている時間さえない。

 

 終盤の印象的なシーンで、長男のセブが半泣きになりながら、無理をする父親に「僕は元の家族に戻れればいい」と訴える。高望みしているわけではない。ただ、もとに戻りさえできればいい。けどそれさえ望めない状況。本作は、日本と地続きで繋がる貧困の底なし沼が描いている。

名作『クレイマー、クレイマー』34歳の俺に刺さった意外なシーン

クレイマー、クレイマー コレクターズ・エディション  [DVD]

個人的トラウマ映画『クレイマー、クレイマー

 ダスティン・ホフマンメリル・ストリープが夫婦役で共演した『クレイマー、クレイマー』という映画がある。いや、元夫婦と書くのが正しいか。
 
 働きづめの夫テッド(ダスティン)が、子育てなど家のことを任せっきりにしていた妻ジョアンナにある日、突然出ていかれてしまう。彼の知らぬ間に、妻は精神的に追い詰められていたのだ。しばらくはテッドが悪戦苦闘しながらビリーを育てていたが、戻ってきたジョアンナは、ビリーを渡してほしいという。拒否したテッドに、ジョアンナは親権をめぐって裁判を起こしてくる…。

 

 この映画、子どもの頃、両親に常日頃から「ママとパパが離婚したら、どちらについていく?」とリアルに聞かれ続けていたぼくにとっては、生首が飛んだり、人が溶たりする映画なんてどうでもよくなるぐらいに「トラウマ映画」である。とくに、事情がまだよく分からないビリーが、母は自分のせいで出ていったのだと勘違いし、枕元で「ママみたいに、パパもどこかに行ってしまうの?」と聞くシーンは、背筋が凍る思いがしたのもである。
 
 時は変わって、2019年。ぼくも34歳、細胞の死滅具合では立派なオトナである。さあここでためしに『クレイマー、クレイマー』を見返してみよう、と思ったのである。

 

意外に刺さった「再就職シーン」

 いざ鑑賞してみると、幼い頃にショックを受けた母子の別離のシーンとは別の箇所が、強い印象に残った。それは、テッドが再就職するシーンである。

 鑑賞したことがある読者は覚えているかもしれないが、映画冒頭のテッドは敏腕の会社員で、出世コースを突っ走っていた。ところが妻と別居後、ビリーの子育てに苦労するうち、次第に仕事がおろそかに。ついには年末になってクビを言い渡されてしまう。
 
 困ったのは、親権裁判が年始に控えていること。このまま年を迎えて裁判に乗り込めば、「無職の父親」として出廷することになる。それはほぼ確実に、親権が元妻に奪われてしまうことを意味する。

 

僕がほしいなら、今この場で決めてください

 呆然とするテッドだが、彼はここで腹をくくる。自分の弁護士に「明日中に就職しますよ」といって電話をガチャリ。死にものぐるいの再就職活動を開始する。

 ところが、時期は年末という就職には最悪のタイミングだ。テッドは就職斡旋所にかけこむが、担当者はその日が12月22日だと言って取り合わない。しかしそれでもテッドは無理やりアポイントメントを取る。彼には今日しかないのだ。
 
 面接先の社内はクリスマスパーティーの最中だ。クリスマスソングが室外で聞こえる中、何もこんな日に来るなよと言いたげな面接官は、テッドの用意したポートフォリオを眺めながら「検討させてもらいます」と一端はその場を切り上げようとするが、テッドが離さない。繰り返しになるが、彼には今日しかないのだ。
 
 テッドは、決定権のある部長に合わせてくれと無理強い。パーティでにぎわう人混みから、ついに部長が担ぎ出されてくる。その部長もテッドには斡旋所の職員と同じことを言う。「給料がだいぶ下がるし、あなたには役不足だ」。しかし、なぜそこまでしてこのポストに就職したいのだ、と聞かれたテッドは「働きたいので」ときっぱり。

 部長も最初の社員と同じく、「では後日」と言って会合を打ち切ろうとする。しかしここでテッドは詰め寄る。「いえ、今日だけの申し出です。明日でも来週でもなく本気で僕がほしいなら、今この場で決めてください」

 しばらく、部屋の外のパーティーの喧騒の中で待たされるテッド(知り合い0人のパーティーの中に一人取り残される孤独感!)。しばらくして、再び部屋に呼ばれたテッドに部長は握手。見事採用が決まったのだ。
 それまでの鬼気迫るような表情だったテッド=ダスティンのほほが緩み、柔らかな笑みが溢れる。帰り際、有頂天のテッドは、通りすがりの女性社員にキス。「メリークリスマス!」といってその場を軽やかな足取りで去っていく。

 

転職活動の本質

 このシーンがなぜ、ぼくの琴線に触れたのか。それはおそらく、このシーンに転職活動の本質がある気がするのだ。「ぼくはこういう人間です。今しかないですよ。いるの?いらないの?」、就職は結局、その問いかけに集約される。「スカウトメールがどうだとか、エージェントがこう言ってるからとか、知らねえよ。御社は私がいる?いらない?」、このシーンにそう言われている気がしたのだ。

 テッドのやっていることは、いわば「押し売り」である。しかし、自分のことなのに「押し売り」もしないやつなんて、果たして採用する側はほしいだろうか、とも思えてくる。テッドの恥も外聞も気にしない自分を押し売りする姿は、そうした転職活動の本質がある気がする。

 もちろん、彼のがむしゃらな姿勢は、絶対に失いたくないという息子への深い愛に裏打ちされているからこそ、さらなる感動を覚えるのだけど。
 
 本作はもちろんフィクションである。現実はそう上手くいくわけがない。そんなことは分かっている。
 
 それでも、テッドが愛息のために、是が非でも就職してやると自分を売り込もうとした精神性は、だらだらだらだらと転職活動を続けてなかなか決まらなかった過去の自分には見せてやりたいとし、いつになるか分からないが、いつかまた転職する際にはテッドのその押しの強さは参考にしたいものである。

 

「ステマ」がなぜ許されないかが分かる映画『FYRE:夢に終わった史上最高のパーティー』

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「PR」をつけずにファイア・フェスティバルを告知するセレブのインスタ一例

  ディズニー映画『アナと雪の女王2』をめぐり、複数の漫画家がSNS上に感想の漫画(主に褒めている)を同時間帯に一斉に投稿し、「これはありのままじゃないんじゃないか?」と、ここ数日にぎわせている。いわゆる「ステマ」疑惑で、ディズニーサイドは「認識はなかった」と否定しているが、きわめてグレーである。

 しかし、意外とこの騒動についてネット広告に詳しくない人からは「何が悪いのかよく分からない」という声も漏れ聞こえている。
 
 「ステマ」の何が悪いのか。それを知るためには、「『ステマ』が野放しになったら何が起きるのか(起きたか)」を知るといい。それを端的に教えてくれるドキュメンタリーが、Netflixのオリジナル映画『FYRE:夢に終わった史上最高のパーティー』である。本作は、あるアプリのプロモーションをめぐって起きた悲惨な事態を活写している。

www.netflix.com

 

 前フリをすっ飛ばすと、この出来事は「『ステマ』を使って成し遂げられた、“ワールドクラスのグルーポンおせち騒動”」といえよう。世界は広い。しょぼいおせちなど目ではなかったのだ。
 
 発端は、米国のカリスマ経営者ビリー・マクファーランドが、自社アプリ「ファイア」(FYRE)のプロモーションで、バハマの島を買い取っての数千万人規模を動員する野外音楽フェスを企画したことだ。

 出来事はイベント本番の数ヶ月前から起きていた。ビリーらは、世界的なモデル、セレブリティ、インフルエンサー何十人もを島に招待し、豪遊させる。その模様を撮影し、スタイル抜群の金髪美女らが青い空、白い砂浜でキャッキャウフフするやたらきらびやかな動画が広告として投下された。

 

 さらに、招かれたセレブらが一斉にフェスについてSNSに投稿。ただしこのとき、大金と引き換えになされた投稿には、誰も「PR」とはつけていなかった。お察しの通り、ここで大規模な「ステマ」が行われた。セレブらの「ステマ」投稿の威力は絶大で、フェスの存在は一気に世間で認知され、高額のチケットはあっという間に売り切れてしまう。
 
 しかし、これは「バハマで史上空前の音楽フェス」という絵に描いた餅が、人々を不幸にしていく過程の始まりだった。

 それ以降、映画の半分以上を占めるのは、ビリーらアホな上層部の思いつきで始まった無謀な企画を、NOと言えない部下らが、血のにじむような思いをして実現するために奔走する過程や、出資者らを平気で騙していくビリーの本性についてだ。複数の当事者と、撮影された当時の映像をもとに紐解いていく。

 早くからネット上に公開されていたイベントの完成予想図から、全速力で離れていく現実のイベント会場の圧倒的なしょぼさ。それでも止まらないデスマーチは、中止のカードを切らないまま、開催日を迎えてしまう。大金を叩きフェスを楽しみにやってきた一般参加者らが直面する悲劇は、是非自らの目で確認してもらいたい。もちろん、このブログはPRでは一切ないのでご安心を。むしろ、ネトフリからは毎月1300円ほど徴収されている側である。

 

 映画を観ると、「ステマ」はあくまで騒動のほんの導入部分にすぎない、という印象を受けるかもしれない。しかし、「ステマ」が見過ごされてしまったがこそ、起きた大惨事である。

 本作には「なぜ『ステマ』を許してはならないか」が濃縮されている。特にSNSは、発信者が「自分の声」で語っているから魅力だ。その言葉が威力を持つのは、発信者の本音という「信頼」が担保されているからにほかならない。SNS上での「ステマ」は、実態のない「信頼」を金で買えてしまう、ということなのだ。


 今回の『アナ雪2』の騒動に関しては、「ステマ」に騙されて劇場に行ったところで(そもそも「ステマ」に騙されて『アナ雪』を観る人がどれだけいるのかという話だが)、映画が上映されていなかった…というようなことはありえないだろう。死ぬほどつまらなかった…ぐらいが起きることの最底辺だ。

 しかし、クチコミを装った宣伝で消費行動を促すという意味では、構図はほぼ同じなのだ。

神田沙也加・元夫のブログに非難の怪 これってそんなにダメなこと書いてる?

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女性自身より

 

 神田沙也加の離婚に関連して、別れた元夫の村田充のブログが、一部で変な方向に話が行っていた。

 村田さんはブログで離婚理由について以下のように説明していた。

子どもが欲しかった私と、前向きになれなかった彼女とで折り合いがつかず、
互いを尊重し、前を向いてそれぞれの人生を歩むという結論に至り、
今年の夏、二人で円満に離婚届を作成し、離婚に双方合意をいたしました。

村田充 公式ブログ Powered by LINE

 

 この文言を読んだときは、「ふーん」と読み流していたのだが、その後、以下のような記事が目にして、驚かされた。

 

jisin.jp

 前段で引用したブログの言葉が一部で非難されている、という。 

 以下が、記事内で紹介されていた非難のコメントだ。

《子供を産まない=後ろ向きかのような言い分嫌だなあ。 価値観が合致しないとき、相手を「間違ってる」かのように捉えるのってアリがちだけど残酷。 相手には相手の事情や考え方があるのだから… そもそも今の日本社会で 女性が子供を持つことの大変さわかってるかなあ》

《「子供が欲しかった自分と、前向きになれなかった彼女」って。 そういうのって結婚するときに話したりしないのかな? それに子供産まないことが後ろ向きなこと=ダメなことみたいに聞こえてちょっとひっかかってしまった。なんか悲しいなって思った》

《神田沙也加さんの離婚原因なんかモヤる…。 「子供を持たない」っていうのは個人の1つの考え方なんだから、それに対して前向きも後ろ向きもないと思うんだけど。 子供を持たない イコール 後ろ向きって考えの男ってヤダな。そもそも妊娠って圧倒的に女性負担なのに、自分勝手すぎる》

《いま仕事がいい時期で、仕事が大好きで、 子供を産む期間にどうしても仕事をストップさせるということに抵抗があるのでとてもよく分かる》


  村田さんは、何も子どもを持とうとしないことが「間違っている」「ダメなこと」といっているのではない。そんなことはどこにも書いていない。

 この非難のコメントの数々読んでいて、ぼくの読解との「根本的なズレ」を感じた。その「ズレ」とは一体何なのだろうか。

 おそらくそれは「前向き」という語の捉え方にある。

 いちいち辞書を引っ張り出してくるのも仰々しいが、「前向き」について一応確認してみると、「ものの考え方が積極的・発展的であること」とある。

 この意味に従うならば、村田さんは「自分は子どもがほしかったが、妻は消極的だったので、話し合った末、離婚しました」といいたいだけである。


 つまり、元妻のスタンスに対して「良い」「悪い」と価値判断を下しているのではなく、「子を持つことに消極的」という彼女の意向を説明しているに過ぎない。なのにこの酷い言われようはなんなのだろうか。


 たしかに、村田さんの文章がややミスリードなのも否めない。原因は「前向き」の前に「、」が入ってしまっていることだ。「、」で切られていることで、「前向き」の指すところが、子を持つことに対しての彼女のスタンスではなく、まるで彼女本人の性格そのものを指して「前向きになれなかった」と言っている、ようにもとれなくない。

 しかし、それはあくまでも「とれなくもない」だけだ。

 

 例えば、

「焼き肉が食べたかった私と、前向きになれなかった彼女とで折り合いがつかず、お昼はあっさりしたざるそばにした」


 これならば、誰も文句は言うまい。

 ああ、「私」は肉をがっつりいきたい気分だったのに対して、「彼女」はお腹空いていなかったのか、胃がもたれていたのだろうか。それぐらいを思うだけだ。何もここで、「焼き肉を食べない=後ろ向きかのような言い分嫌だなあ」なんて言い出す人はいないだろう。いたらすいませんが。

 

 「焼き肉」ならばスルーされるのに殊に、「妊娠」や「出産」、「育児」ではバチバチするネットの雰囲気。過去にも何度も経験してきた。
 もちろん、妊娠、出産がセンシティブな問題なのは分かる。女性にとって一大事である。それは分かる。

 一方で、少しでもネガティブにとれるような余地があれば、顕微鏡で100倍でも200倍にでもするように拡大解釈し、ネガティブにとらえるのはどういう心性なのだろう。

 ときにそれは世の中にあふれている「妊娠」や「出産」「育児」にまつわるトピックに対して、「怒れる余地はないだろうか」と、探しているかのようにさえ思える。

 こんなことを書くと、「あなたは所詮男だ。分かってない」と言われそうだけれど。