滝川クリステルの「ワンランク上にいる感」は何なのか
滝川クリステルという人の「ワンランク上にいる感」はどこから来るのだろうか。それが、前から気になっている。
もちろん、「ワンランク上にいる感」は彼女自身が望んだことではない。彼女の周囲、マスコミ、もっといえばそれを受け取るわれわれが勝手に彼女をそう扱っているのであり、本当の謎は「ワンランク上にいるような扱い方」の方だ。一体、われわれは彼女をどうしたいのだろうか。
今回の結婚発表でも顕著だったのが、マスコミが彼女を「滝川クリステル」という固有名で報じたことである。
記事本文に入れた記事はあっても、タイトルに「女子アナ」という語句を入れた記事はほとんどない。
と、思っていたら、この文章を書いて下書きに入れている途中に出ていた。そうそう、こういうの。
(2ページ目)【滝川クリステル】滝川クリステル 女子アナ“双六”の上がりは総理夫人の座|日刊ゲンダイDIGITAL
さすが俺たちのゲンダイ(ほめてない)。
しかし、探しても現時点ではこの記事ぐらいだ。これまで、「女子アナ」という語句にありとあらゆる下世話な欲望を乗せ、彼女たちへの敬意を欠く才能においては右に出る者がないマスコミをもってして、である。
それは、「次期総理(笑)」の小泉進次郎への遠慮というよりも、これまでと同様の滝川クリステルの「ワンランク上の扱われ方」の延長線上にあるように思える。
そうしたマスコミの傾向が何も間違っている、と言いたいわけではない。人を肩書きではなく、その人個人として扱うのはむしろ正しい。
言い直せば、この問いは「なぜ女子アナの中でも滝川クリステルは例外的に、マスコミから人間として“正しい”扱いを勝ち得たのか」である。
マスコミが「ワンランク上に扱いたくなる要素」はいくつかあるように思える。彼女の「聡明そうな外見」、「青学仏文科卒の才女」、「英仏日のトリリンガル」、「動物愛護生物保全活動家としての顔」、そのどれもがたしかに「ほかの人よりワンランク上の扱われ方」にふさわしいパワーを放っていそうである。ただ、一方で「いかにもアナウンサーらしい」といえばそれまでだ。
大きかったのは、東京五輪承知の際の「お、も、て、な、し」かもしれない。
しかし、それは原因というよりもむしろ結果で、それまでの「ワンランク上の扱われ方」があったからこそ、彼女は五輪招致大使に任命されたのではないか? ちなみに大使に抜てきしたのは当時の都知事、猪瀬直樹と言われている。
結局、滝川クリステルの「ほかの人よりワンランク上の扱われ方」の理由はよく分からない。少なくとも、彼女をまるで未来のファーストレディのように扱うその敬意を、マスコミがゲスな眼差しを向けてきたほかの女子アナにも分けてあげてほしい。ほかの女子アナも「滝川クオリティ」での報道をお願いします。もっともその「クオリティ」が当たり前のことなのであるが。
絶賛炎上中の吉本・岡本社長が語った「愛」「ファミリー」の何が怖いか
先週末から夢中になってしまっている吉本の件である。ここ数日、1日でさまざまな“補助線”が引かれ、目まぐるしく展開している。
「松本 動きます」のツイートで一躍騒動の中心に躍り出たダウンタウンの松本人志が、吉本を批判しつつ、岡本社長の会見を提案。一見、吉本批判のように見えるが、その実「大崎さんが辞めたら僕は辞める」と強い慰留の意思を示しており、現体制を維持しつつ、事態の沈静化をはかっているようにも見える。
一方、その翌日の『スッキリ』で、極楽とんぼの加藤浩次がその松本に今度は噛みつき、会長・社長の辞任がないなら自分が辞めると啖呵を切った。
宮迫と亮の会見で提示された「芸人vsよしもと」という構図のほかに、わずか2日足らずで「よしもとの現体制存続派vs再編派」の図式の可能性まで出てきた。これほどまでに登場人物が豪華で、展開がスリリングな騒動もなかなかないのではないか。
『ワイドナショー』には始まる前から嫌な予感はした。そして、その予感は少なからず当たった。松ちゃんの発言がいちいち情緒的で、ナイーブなのである。番組で語ったように、不安がる後輩芸人を思って動いていることは嘘でないのだろう。
しかし、会社の現2トップはそれぞれ自身の歴代マネージャーであり、大崎会長に関しては番組で自身の“兄貴”とさえ言ってのけた。この2人を心のそこから叩けないのには、一企業の会長、社長という立場以上の情を抱いているのは明らかだ。
松ちゃんは年々確実に情に厚くなっている。それが家族ができたことでの変化なのか、単純な老いなのかは定かではないが。ダウンタウンフリークの僕が言うのだから間違いない。かつて40歳ですぱっと辞めると公言していたのに、相方に気遣い、60歳近くなった今では引退のいの字も出さなくなった。また、単純に後輩との絡み方もかなり丸くなった。
それに対して、名指しで批判し、会長と社長に辞任を求めた加藤。トップとしてありえない言動をとったのだから潔く辞めるべきだ、という。分かりやすいし、真っ当だ。
そして迎えたのが、昨日14時から始まった騒動の中心人物、岡本社長の会見である。
これがまあ酷かった。「酷いことにはなるだろうな」と予期してはいたが、その予想のさらに下を通過していった。イエスかノーで答えられる質問にだらだらだらだらと蛇行しては遅延。しどろもどろで何が言いたいのかわからない。国民的な注目が集まることが分かりきっていた中で、まさかの丸腰か!? という内容だった。
記者側の手際が良かったわけでは必ずしもないが、ほぼワンサイドゲーム。ボコボコの5時間半だった。途中で変なタイミングで「泣き」を入れて、もしかしたら聴衆が情にほだされるのを期待したのかもしれないが、ただなぜそこでというタイミングだったために不自然なだけだった。
ところで、この会見で記者から「社長としてふさわしいか?」と聞かれた際、岡本社長は以下のように回答していた。
一個だけ思っているのは、笑いを愛して、笑いを作られる方、表現される方を愛しているというところにおいては人一倍思っている。
組織のトップの立場にありながらパワハラをしでかした今、それでもあなたに約6000人の芸人を束ねる大企業を取り仕切る資格はあるのか、と聞かれて、この社長はその「愛」を語ったのである。
あまり語られていないが、ぼくはこれが地味にやばい箇所だと思っている。
こうした追い詰められた場面で語られる「愛」には注意が必要だ。
愛は恐ろしい。
なぜなら愛は「絶対的」と思われがちだからだ。愛だから素晴らしい。愛なのだから許される。オール・ニード・イズ・ラブ! 愛こそすべて!
愛の絶対性の名の下で行われた行動は、歯止めが効かなくなって暴走していく。
その一例がこれである。
「愛しているのになぜ殴るのか」というのが至極当然な疑問のはずだが、愛の名のもとでは「愛しているから殴るのだ」に容易に反転し、それが違和感なく受け入れられてしまう怖さ。
愛と並列して、会見中に何度か飛び出した「ファミリー」も怖い。
企業を「家族」と評する言葉遣いも恐ろしい。愛と同様に「家族だから」がまかり通ってしまうからだ。
「家族」では「お父さん」が根拠なく一番えらい。「お父さん」が言えばなんでもまかり通ってしまうし、「お父さん」が間違っても「お父さん」だから許されてしまう。そこに理はない。
どんなに脅し文句、恫喝の言葉を使っても、あとから「あれは冗談だった」と言いくるめられるのも「家族」の特徴だ。だって、本当は愛してるんだもの!
最後に、加藤が出演する今日の「スッキリ」までもう数時間だが、次なる事態の展開への個人的な期待を述べておこう。
今の所、社長と会長が辞める気配はないのだが、加藤が潔く辞めてしまっても面白くない。
いっそ、社長と会長が辞めて松ちゃんも辞めてみてほしい。理由は誠に軽薄で申し訳ないが、そろそろ「吉本でなくなった松ちゃん」も見てみたい。このまま、ダラダラ大御所として居座っていても仕方ないだろう。
ちなみに、歌のうまさでも定評のある宮迫の十八番は、欧陽菲菲の「ラヴ・イズ・オーヴァー」である。3人が吉本を離れる際は是非熱唱してあげてほしい。
「007に黒人女優」をめぐるいくつかの“誤解”
来年公開予定の『007』シリーズ最新作『Bond 25(仮題)』で、コードネーム・007のエージェントをイギリス出身の黒人女優ラシャーナ・リンチが演じる、と報じられて物議を醸している。まだ正式なリリースではなく噂レベルでしかないが、日本ではそれでも衝撃が走っている。
ここでも、例のごとく「女が007をするな!」「またポリコレか」と喚き散らす人々が後をたたないのだが、その点でいくつかの誤解があるように思える。
ここでは3つに絞ってその誤解を解いておきたい。ただ、1と2についてはこちらも正直、書いているだけで恥ずかしくなってくるぐらい初歩的なレベルが低い誤解であり、ほとんどの人は読み飛ばしてもらっていただきたい。
【誤解その1】ジェームズ・ボンドを女性が演じるわけではない
まず、基本的な情報だが、ジェームズ・ボンドを女優が演じるわけではない。「007」はあくまでもコードネームである。
本作では、すでに007を引退して隠遁生活を送っていたボンド(クレイグ)を、新しい007を演じるランチが呼び戻しに行く、というストーリーとのことだ。
「初の黒人女優」というのは、キャラクターではなく役職のこと。ちなみに、ぼくが思うに、「007は白人男性」なのが決まっているのは、スパイとして致命的だと思うのだが。すぐ敵にバレちゃう。
【誤解その2】あくまで主人公はボンド=ダニエル・クレイグ
わしは女性の地位向上に賛成するし、「スターウォーズ」の主人公が女性になっても違和感を持たなかったし、王子さまを必要としない「アナと雪の女王」も大好きなのだが、それをポリコレとは感じなかった。
作品世界を壊すものではない。だが「007」の主人公を黒人女性にする必要があるとは全然思えない。それこそ作品世界の破壊である。
今回の件では、一人称が「わし」なことで有名な漫画家・小林よしのり氏がいち早く吠えているのだが、これは根本的な勘違い。
先述したように、「ジェームズ・ボンドが007を引退した」だけであって、「ダニエル・クレイグがジェームズ・ボンドを降板した」わけではない。そして、主役がクレイグ=ボンドであることもすでに発表されている。(あくまでまだ噂レベルではあるが)今回の007を初めて女性が担当するとの情報は、いわばクレイグ版ボンドの物語上の設定にすぎないのだ。
それを取り上げて喚き立てるのは、少々気が短すぎるのではないか。
むしろ、「007を降りるボンド」はなんとも胸アツ設定ではないか。ディズニー/ピクサーでここ数年『カーズ/クロスロード』や、公開中の『トイ・ストーリー4』で描いている「ピークを過ぎた斜陽ヒーローの身の振り方」を描くトレンドに接近しているのではないか、とさえ思えてくる。
「自分の限界を認め、007という肩の荷を下ろした哀愁ただようボンド」がスクリーンで見れた日には、わしは感動でもう涙ちょちょぎれそうじゃよ。
【誤解その3】クレイグ版ボンドはそもそも“異端”
そして、ほとんどここからが本題なのだが、クレイグ版ボンドは、これまでのシリーズと比べると“異端”だということだ。
たとえば、セックスシンボルとしてのジェームズ・ボンド。ボンドといえば、プレイボーイのイメージで、今回の「007=女優」の噂にも、男らしく、女にモテモテのヤリチンというイメージから著しくかけ離れているからこそ、「またポリコレか」と嘆く声が出ているのだろう。どうでもいいが、ツイッターで今回の騒動に「伝統芸能を守れ」みたいな言葉を目にして、胸焼けがした。
閑話休題。これまでのプレイボーイなボンドを守れ、という批判。ぼくはここに違和感があった。
はて? クレイグ版ボンドでは、そもそもそんなに女を抱くシーンが描かれていたっけ?
ということで、調べてみると以下のような面白い記事が出てきた。孫引きで申し訳ないが、「歴代ボンドの抱いた女の数を数える」というクソほどしょうもなく、かつクソほど面白いことが期待できる記事だ。数えた結果、以下のことがわかったそうだ。
1位に輝いたのは、3代目ボンドのロジャー・ムーアで、たった7作品の中で、何と19人の女性とベッドを共にしているという。
2位は、初代ボンドのショーン・コネリーで、6作品で15人のボンドガールと、3位の5代目ボンドのピアース・ブロスナンは4作品で9人の女性と関係を持っており、1作品で2、3人の女性と絡んでいることになる。
ロジャー・ムーアが演じた3代目ボンドが、一番はっちゃけていたというイメージはあったが、やはりイメージ通り。1作でほとんど3人とラブシーンがあるということである。仕事しろよ。
ではそれに対して、クレイグが演じた6代目ボンドはどうなのか。
現在ボンドを演じている6代目ボンドのダニエル・クレイグは、『007 カジノ・ロワイヤル』(06)、『007 慰めの報酬』(08)でたったふたりの女性としか関係を持っておらず、1作品で1人の女性という、“誠実なボンド”に変化している。
同上
これもイメージ通り。やはり印象通り、クレイグ版になってラブシーンは抑え気味になっている。
ちなみに、このあとクレイグは「スカイフォール」「スペクター」の2作で主演。この2作について調べた記事がなかったので、ついにぼくは自分のライブラリーから2作を引っ張り出してきて、この記事を書くためだけに見返しましたよ。こんなことで見返すなんて僕もびっくりしましたよ、ええ。
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結論から言うと、2作のクレイグはそれぞれ2人の女性とラブシーンがある。つまり、4作で6人だから平均1.5人。やはり、抑え気味になっていることがわかる。
つまり、時代の要請なのかは定かでないが、クレイグ版ボンドはもともとプレイボーイのイメージが脱色されつつあったということである。
ちなみに、ベッドシーンが減ったことは、作品としのクオリティの著しい向上に寄与したと思われる。だって、最近のボンドは、エッチしている暇がないぐらい毎回壮絶な目にあっている。過去のシリーズと比べてもなかなかすごい。しかし、もしあそこにベッドシーンをぶち込んでいたら、間延びして退屈になっていただろう。
このことを無視して「またポリコレか」伝統を守れ()」とやっている人たちはおそらく、クレイグになって以降のボンドを観ていないのではないか、と思っている。
さて、最後になるが、ダニエル・クレイグ自身が実は、6代目ボンドに抜てきされた際、厳しい批判にあっていたことを思い出してもらいたい。
クレイグが本作への出演が発表されるとすぐに、インターネットではクレイグのボンド役に反対するウェブサイト、クレイグノットボンド・ドットコムが立ち上がり、耳が大きすぎる、金髪のボンドはダメ、じゃがいも顔、などと批判を受けた
クレイグ自身も、実は容姿を理由に最初は「007にふさわしくない!」とバッシングを受けていたのだ。
しかしどうだろう、蓋を開けてみれば前代ピアース・ブロスナンの4作を抜いて、5作目が作られようとしている。さらに、「スカイフォール」は、シリーズ最高収益を樹立した。ボンドにふさわしくないと叩かれたクレイグは、結果で批判者を黙らせたのである。
そんなクレイグは『Bond 25』を最後に降板することが決まっている。異色のボンドの最後に、異色の黒人女優007が登場する。異色づくめのフィナーレにうってつけではないか。
何はともあれ、女性の007が好きな人も嫌いな人も、来年の公開を待望しようじゃないか。あーだこーだいうのはそれからでも遅くはない。
プロレス素人がドハマり『有田と週刊プロレスと』ここがスゴい!
いよいよ今夜0時から、『有田と週刊プロレスと』ファイナルシーズンの配信がスタートする。
ぼくはプロレス素人なのだが、この番組にはすっかりハマってしまった。今回はプロレス素人の目線で、『有田と週刊プロレスと』の面白さを紹介しよう。ずっと書いておきたかったことだが、このタイミングしかないと、この勢いに乗せて書いてしまう。
■ 有田の知識量がスゴい
番組のコンセプトは単純明快。ベースボールマガジン社から出版されている雑誌「週刊プロレス」を今もなお買い続けるくりぃむしちゅー有田哲平が、毎回約25分、ランダムで配られる「週プロ」一冊を語り倒す、それだけである。
有田は毎回、茶封筒から出すその瞬間まで、その回の週プロが何年の何号かを知らない。そこから全て、アドリブで語りは始まる。大学でいうなら、授業する講師も毎回シラバスが分からないのである。大学でもこんな過酷な所業はないだろう。
30分しゃべっているのはほとんど有田である。ゲストもいるが、プロレス玄人の回はあまりなく、ほとんど「聞き役」。そんな狂気のハンデ戦でも番組が成立するのは、有田の博覧強記といえるプロレス知識があるからにほかならない。
■ 有田のストーリーテリングがすごい
有田が一冊の「週プロ」の内容を把握し、そこから引き出される知識量、記憶力にも驚かされるが、なによりもその物語構成力に舌を巻く。
知識量なら、もしかしたら有田レベルのプロレスオタクは少なくないのかもしれない。
有田がすごいのは、その知識量を瞬時に的確に配置し、1つのサーガにしていくストーリーテリング能力である。
ときに語りは、その回の本題からまるで関係のないように思える小川から始まり、それがあれよあれよというまに、壮大な大河へと見事合流する。
白眉だったのは、高田延彦(伸彦)vsヒクソン・グレイシー戦の語り(シーズン2、NO19参照)。高田の話なのに、なぜか話は師匠猪木が掲げた新日の哲学「キングオブスポーツ」から始まるのだが、その流れるような話の持って行き方はぜひ体感してもらいたい。これにはゲスト、プロレスファンのビビる大木も脱帽していた。
■ "いつもと違う有田"が見られる
また、普段の有田とは違うことも付け加えなければならない。ゲストで来たノブコブ吉村をして「放送大学のような雰囲気」と言わしめたように、番組中のトークにボケやガヤは挟まれるものの、基本的に全編“まじめ”である。そしてそのまじめさのトーンを決めているのは、有田本人のスタンスでもある。
かつて相方・上田晋也とやっていた『くりぃむしちゅーのオールナイトニッポン』や、現在も『しゃべくり007』などで見せる本筋をどんどん逸脱していこうとするトリックスター的なポジションとは一線を画する、MCでありストーリーテラーであり、ときにツッコミにも回る有田の別の顔がそこにはある。
■ "プロレスの何がプロレスファンを惹きつけるのか”を教えてくれる
「プロレスなんてショーじゃないか」は、プロレス素人がとる冷笑的ポーズのもはや定番である。
K-1、総合、ボクシングに親和性があったぼくも、この番組を観るまではどちらかと言うとそのスタンスに近かった。
しかし一方で、「ではなぜ、ほとんどガチでないことが公然の秘密となった今もなお、プロレスファンはプロレスに惹かれるのか」という問いには興味があった。
この番組を観れば、その問いに少なくともいくつかの仮説が立てられる。以下、僭越ながら、プロレス素人のぼくが感じる「プロレスの魅力」の3つである。
- ショー=見世物としての魅力
前段で記したようにプロレスがショーであったとしよう。しかし、ショーであろうと、ショーはショーである以上、「見世物」として洗練されなければならない。まず、卓越したショーとしての魅力があることは言う前もない。
さらに、ショーであるとはどういうことかを突き詰めればそれは、ときに技の出し手ではなく受け手、試合の勝者ではなく敗者にも見せ場がある、ということである。
印象的だったのは、有田がある回のミニコーナーで、あるプロレス技を解説した際、「この技の欠点は、受け手の顔が隠れてしまうこと」という旨の指摘していた。この視点こそが、「ショーであるプロレス」のどこをファンが注目しているかのヒントが隠されていると言えるだろう。
- 舞台裏に隠された"ガチ”
さらに、プロレスがショーだとしても、その舞台裏はガチである可能性が高い。プロレスでなくても、ドラマや映画で考えてもらいたい。劇中でどんなに仲がよい役だったとしても、カットがかかれば口も聞きかないような間柄だってあるだろう。
たとえリングの上での出来事がショーだとしても、その舞台裏には、本気のドラマが隠されている。現に、この番組での有田の語りは、試合展開と同等かそれ以上に、その試合が成立するに至るまでに繰り広げられた生々しい人間ドラマ=舞台裏に割かれる。それを「ガチ」といわずとしてなんと言うだろう。
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解釈できる“余白”
エピソード3まで視聴して分かってきたことが一つある。それは、プロレスを楽しむというのは、プロレスを解釈し、語ることと同義であることだ。
その証拠の一つに、この番組が愚直に貫くことが一つある。それは、あくまでも「週刊プロレス」に依拠しているということ。やろうと思えば、新日本プロレスやテレビ朝日、日本テレビに映像を借りることだってできたはず。
しかしこの番組はあくまで、「週刊プロレス」のみに依拠し、ビジュアル的な情報は「週プロ」に掲載された画像のみだ。ここまでの3シーズンで、動く絵は一切使われてない(ぼく調べ)。番組がその多くを依存するのは、実は何を隠そう有田の記憶である。そのため、番組冒頭では毎回、有田の「細かい記憶違い」をへの了承を願う文言がナレーションで読み上げられる。
ここからはあくまでぼくの解釈であるが、番組がそうした「記録」に頼らないのは、プロレスの本質的な魅力に関係するのではないか。つまり、プロレスの魅力とは、静的な「記録」の中にではなく、人の移ろいやすい「記憶」、もっと言えば恣意的な「解釈」や「記憶違い」「思い込み」の中にあるのではないか。オーラルヒストリーとして、生き続けるのがプロレスなのだ。
それが、K-1や総合、ボクシングなどと根本的に異なることだろう。それらは歴然とした「結果」であり、そのためにブレにくい。しかし、プロレスは解釈のエンターテイメントであり、それぞれのファンに「解釈」がある。そのため、いかがわしいし、うさんくさい。しかし、そのいかがわしさ、うさんくささ自体が魅力がプロレスの魅力なのではないだろうか。
倉持明日香がかわいい!
番組の魅力についてに話を戻そう。
何よりも重要なことだが、この番組初回から今までずっとアシスタント的なポジションで出演し続けている倉持明日香がかわいいということである。
親は元プロ野球選手だが本人はガチプ女子、という倉持。ニコニコしているただのお飾り人形ではないものの、かといって出しゃばりすぎない、という絶妙なアシスタントポジションを取り続けている。そんな倉持さんがかわいらしいのである。なんだったら番組の魅力の90%ぐらい倉持さんの魅力である。
#有田と週刊プロレスと シーズン3 2話が配信になりました!
— 倉持明日香 (@asuka_k911) July 25, 2018
配信されてすぐ見ながら爆笑して(自分が出演しているとは思えないくらい家で笑ってます)
そのあとすぐ寝たら、マスクマンにひたすら追いかけられる夢を見ました。
ガガガギギガガ、、#影響力 pic.twitter.com/54aBvWKdmq
というわけで、『有田と週刊プロレスと』、アマゾンのプライム会員だという人はぜひチェックしてみてほしい、拙文で少しでも興味が湧いたという人は、加入して観てほしいものだ。
しりとりエッセイ「ブクロ」
先日、たしかあれは新宿に行く山手線の中だったが、2人の女子中高生が「渋谷・新宿はやっぱ怖い。池袋は落ち着くわー」という旨の話をしている声が聞こえてきて、思わずそちらの方を向いてしまった。
というのも、ぼくからすれば池袋と渋谷・新宿のイメージがまるで正反対だからだ。ブクロはぼくにとって怖い街だ。何が怖いかというと、ズバリ人だ。
ここでいう怖いとは、「ヤクザが怖い」というときの暴力への恐れではなく、畏怖とミステリアスの中間に位置する感情だ。なんといえばいいのだろう。渋谷と新宿を歩く人たちが、「進歩」「最先端」「洗練」を志向しているとするならば、ブクロの民は常にそのオルタナティブでぼくを圧倒してくる。
あるときは、往来のJR池袋構内で歯磨きしながら歩くおじさんを見た。シャカシャカ磨きながら、泡でも飛ばす勢いで。なぜ駅を歩きながら歯磨きする必要があるのか?止まって磨くことはできないのか?そもそも恥ずかしくないのか?そんなぼくの疑念が浮かぶよりも早く、彼はスタスタと歩き去った。どこで「ぺッ」するのかが気になったが。
また別の日の早朝、まだシャッターがちらほら見られる駅前を、豪快にゴミ箱を蹴ちらして歩く女を見たこともあった。女は、その近くをスタスタ歩く背広男をこれ以上にないほど罵倒しながらついて行っている。これだけなら100歩譲って、一夜を過ごしたあとに何かで揉めた男女のよくあるやつかと片付けていただろうが、怖かったのは背広男の方で、男はまるで罵倒女などその場にいないかのように無視してスタスタ歩き続ける。もしかしたら、罵倒女と背広男は赤の他人…いや、それにしても背広男が動揺しなさすぎである。これもなかなか奇妙な光景だった。
挙げればほかにもあってキリがない。ブクロは畏怖すべき街である。ブクロを分かった気になってはならない。あなたがブクロを見つめるとき、ブクロもまたあなたを見つめているのだ。
ぼくとTシャツとカレーうどん
白い一枚のTシャツを想像してほしい。あなたのお気に入りだ。
それを着ていたとき、不注意にもカレーうどんを食べてしまい、汁が右乳首付近でオーストラリアみたいな形の小さな染みを作ってしまった。洗濯しても微かにオーストラリアがある。目立つ位置だ。
そういう「汚れ」に気づいたときに、今まで大事にしていた分、あなたは落ち込むだろう。どうしてあのとき、カレーうどんを…なんて後悔するだろう。
そうした明らかなミスでなくても、洗濯し続けていると、どんなに注意を払っていても、いつかはTシャツの細部は変化し、買ったときのすこし青みがかった「白さ」は失われ、どちらかというと黄ばんでいく。
ぼくも前までは「せっかくの白Tが」派だった。
しかし最近は、落ちない汚れがついても、経年劣化で変色してきても、それはそれで「あり」なことに気づいた。たとえそれがどんなにお気に入りのTシャツであっても。
ほら、汚れのつき方によってはポロックの絵みたいでカッコいいし。ごめんそれは言い過ぎた。
もともとどんなに白かろうと、既製品なわけで、同じ白いのだったら、生産した数だけあるのである。ぼくがわざわざ、それを持っていても仕方ない。
しかし、右乳首のところに黄色いオーストラリアのあるそのTシャツはたぶんぼくの持っている一着しかない。それはそれでいいじゃん、と思うようになった。「汚れ」であるどころか、それは「あるときぼくはカレーうどんを食べた」という証であり、一種の「ライフログ」なんじゃないかと思えてきた。
実社会で「白いTシャツ」についた「汚れ」を思うことはいっぱいある。
例えば、"いじめがあった"という事実を隠ぺいする学校の先生。
学校なんて、未熟な人間が集まるのだからいじめも多少はあるだろう。起きてから対処したって遅くない。
なのに、いつかしか「いじめはないことが望ましい」が、「いじめはゼロでなければならない」に変わり、さらには「いじめはゼロ、でなくてもゼロのフリをしなければならない」へとエスカレートする。
これは、真っ白なTシャツを真っ白に保とうとするのではなく、汚れたおしたTシャツを真っ白だと思い込む、狂人の身振りだ。
人はこれを無謬主義と呼ぶ。
「真っ白いTシャツ」はどこにでもある。最初の「真っ白いTシャツ」を知っているがゆえに、人はその幻影にすがりついておかしくなっていく。「汚れ」1つにこの世の終わりのように落ち込み、カレーうどんさえ避け始める。あんなにおいしいカレーうどんを。
「汚れ=ライフログ」説を唱えればもう何も怖くない。先日も、何年も着たおして元のデザインも変色しだしたお気に入りのTシャツを着て出社した。
会社で、上司に呼び止められて「それ、だいぶ色落ちてるけど、ビンテージっぽくて逆にいいじゃん」と褒められた。
へへへ、これを褒めるってことは、ぼくの今までの人生を褒めてるってことですよ。口に出しては言わなかったけど、ほくそ笑んだ。
【土日これ観ろ】『スノー・ロワイヤル』“いつものリーアム・ニーソン”だと騙されるな! この映画、どこかが変だ
我が家には「除雪車が出てくる映画はだいたい名作」という家訓があるが、今回もその正しさが証明された。今回オススメしたいのは、現在公開中のリーアム・ニーソン最新作『スノー・ロワイヤル』だ。
この映画、どこかが変だ
話はいきなり飛ぶのだが、ジャウム・コレット=セラ監督の傑作ミステリー『エスター』は、日本版では「この娘、どこかが変だ」というよくできたキャッチフレーズがついていた。
このコピーは、ヒロインの少女エスターの印象を端的に捉えている。主人公の家に養子としてやってくるエスターは、一見聡明でいい子なのだが、“どこかが変”なのだ。映画は、そんな彼女の何が変なのかを紐解いていくプロセスである。それになぞらえるならば、本作『スノー・ロワイヤル』は、いわば「この映画、どこかが変だ」なのだ。
雪の町で起きた麻薬密売をめぐる殺人。それをきっかけに、組織と、先住民族と、そして除雪作業員のおっさんに扮したニーソンによる三つ巴の戦いが描かれる。リーアム・ニーソンだけがほぼ個人軍だがそれはしかたない。ニーソンだからだ。
日本版のポスターの様相がかなりミスリードで、鑑賞前まで本作はここ10年ぐらい、ニーソンのイメージを形成する(そして、観客が期待する)『96時間』以降の「荒ぶるおっさん」系だと思い込んでいた。実際、物語の最初の展開からもいかにも「あー、これは」と早合点しまった。
ところが、先に進めば進むほど、この「荒ぶるニーソン」の要素は薄まっていく。
真顔でふざける同級生みたいな映画
荒ぶるニーソンの存在は隅に押しやられ、それどころ、映画はゆっくりと確実に「王道」を逸脱していく。分かりやすい「お約束」が登場しては、それが即座に裏切られるのだ。
一つ例をあげれば、「死体発見現場で気持ち悪くなってゲロを吐く警官」という「お約束」がある。本来ならぺーぺーの新人が吐くところだが、本作ではいかにもベテランなおっさん警官がゲロゲロやる。このあたりも軽くお約束破りといえるのではないか。
加えて、ものすごいシリアスな展開で突拍子もないギャグが挟まれる。最初は戸惑い、「あれ? 今のを面白いと思うのは、自分の感性がおかしいのかな?」と、自分を納得させようとするが、それが何度も起きて次第に分かる。いや、これは作り手、確信犯的にやってる。この映画、どこかが変だ!、と。
表面上は真面目なふりをしてやるのだからタチが悪い。ほら、学生時代も、分かりやすくひょうきんなやつ(女子に比較的人気)より、真面目なやつが真顔でボケたときのほうが破壊力があったではないか。
中盤では一時、物語の発端となった悲劇の事件そのものがどうでもいいぐらい後景に押しやられていき、鑑賞者は「この映画、どこに連れて行く気だ?」と、吹雪の中で遭難するような不安感も押し寄せるが、最後はバッチリ決めてくれるのでご安心。
エンドロールでも面白い「お約束破り」がなされる。まったく食えない映画である。