いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【土日これ観ろ】『スノー・ロワイヤル』“いつものリーアム・ニーソン”だと騙されるな! この映画、どこかが変だ

映画チラシ スノー・ロワイヤル リーアム・ニーソン

  我が家には除雪車が出てくる映画はだいたい名作」という家訓があるが、今回もその正しさが証明された。今回オススメしたいのは、現在公開中のリーアム・ニーソン最新作『スノー・ロワイヤル』だ。

この映画、どこかが変だ

 話はいきなり飛ぶのだが、ジャウム・コレット=セラ監督の傑作ミステリー『エスター』は、日本版では「この娘、どこかが変だ」というよくできたキャッチフレーズがついていた。

 

エスター (字幕版)


 このコピーは、ヒロインの少女エスターの印象を端的に捉えている。主人公の家に養子としてやってくるエスターは、一見聡明でいい子なのだが、“どこかが変”なのだ。映画は、そんな彼女の何が変なのかを紐解いていくプロセスである。それになぞらえるならば、本作『スノー・ロワイヤル』は、いわば「この映画、どこかが変だ」なのだ。


 雪の町で起きた麻薬密売をめぐる殺人。それをきっかけに、組織と、先住民族と、そして除雪作業員のおっさんに扮したニーソンによる三つ巴の戦いが描かれる。リーアム・ニーソンだけがほぼ個人軍だがそれはしかたない。ニーソンだからだ。
 
 日本版のポスターの様相がかなりミスリードで、鑑賞前まで本作はここ10年ぐらい、ニーソンのイメージを形成する(そして、観客が期待する)『96時間』以降の「荒ぶるおっさん」系だと思い込んでいた。実際、物語の最初の展開からもいかにも「あー、これは」と早合点しまった。
 
 ところが、先に進めば進むほど、この「荒ぶるニーソン」の要素は薄まっていく。

 

真顔でふざける同級生みたいな映画

 荒ぶるニーソンの存在は隅に押しやられ、それどころ、映画はゆっくりと確実に「王道」を逸脱していく。分かりやすい「お約束」が登場しては、それが即座に裏切られるのだ。

  一つ例をあげれば、「死体発見現場で気持ち悪くなってゲロを吐く警官」という「お約束」がある。本来ならぺーぺーの新人が吐くところだが、本作ではいかにもベテランなおっさん警官がゲロゲロやる。このあたりも軽くお約束破りといえるのではないか。

  加えて、ものすごいシリアスな展開で突拍子もないギャグが挟まれる。最初は戸惑い、「あれ? 今のを面白いと思うのは、自分の感性がおかしいのかな?」と、自分を納得させようとするが、それが何度も起きて次第に分かる。いや、これは作り手、確信犯的にやってる。この映画、どこかが変だ!、と。


 表面上は真面目なふりをしてやるのだからタチが悪い。ほら、学生時代も、分かりやすくひょうきんなやつ(女子に比較的人気)より、真面目なやつが真顔でボケたときのほうが破壊力があったではないか。

 

 中盤では一時、物語の発端となった悲劇の事件そのものがどうでもいいぐらい後景に押しやられていき、鑑賞者は「この映画、どこに連れて行く気だ?」と、吹雪の中で遭難するような不安感も押し寄せるが、最後はバッチリ決めてくれるのでご安心。

 

 エンドロールでも面白い「お約束破り」がなされる。まったく食えない映画である。

山ちゃん結婚から考える「ぼくらは勝手に幸せになってしまう問題」

 2日続けて同じ男をテーマにするのは初めてかもしれない。書きたいことが多すぎるのだ。ということで山ちゃんである。

山ちゃんが逃げ続けていたもの

 先週のこの日、山ちゃんは結婚会見を開くとともに、深夜ラジオで結婚を生報告していた。放送は意外なほど和やかに進んだが、相方のしずちゃん、ゲストのaikoを迎えた番組の終盤で、山ちゃんの思いが決壊したダムのように溢れ出す。
 

 本当、僕、実は結婚は凄く悩んでて。っていうのも、ラジオでずっとそんなことの逆の人生の話をしてて。それで、そういう人たちを妬んできてて。幸せになることが、あんまり良くないかなぁと思って。

幸せになったら、リスナーのみんなが俺のラジオ聴く意味なんかなくなって、楽しくなくなるかなぁと、ずっと思ってて…ごめんなさい。結婚することが、怖くて…

 

 文字に起こすと分かりにくくなるが、音声で聴くと、涙ながらの彼の語りは、「うれし涙」の色調を帯びながらも、ある種の「恐怖」が感じ取られた。

 彼が何を怖がっていたのか。ずばりそれは幸せである。

 山ちゃんは著書『天才はあきらめた』の「はじめに」でこう書いている。

 僕はいつも自分にこういい聞かせている。
 自分を「頑張れなくさせるもの」を振り切って、全力で走れ!
 そんなものからは、逃げて逃げて逃げまくれ!
 そのためのガソリンとして、自分が味わった苦しい感情を全部使え!
 嫌いな奴を燃料にして、脳内で圧倒的な勝利を掴め!
 今日も僕は、勝手に認定した敵やライバルを脳内で燃料にして走り続けている。

p-4

天才はあきらめた (朝日文庫)

天才はあきらめた (朝日文庫)

 

 

 山ちゃんが「逃げて逃げて逃げまく」っていたものこそ、幸せである。

 山ちゃんはついに今回その幸せに捕まってしまった。あんなに逃げていたのに。

 

 山ちゃんの結婚を目の当たりにしても思うが、ぼくらは幸せになれないのではない。逆である。むしろ、放っておけば勝手に、容易に幸せになってしまうのである。幸せになれる可能性を0にすることのほうが難しいとさえいえる。

 これは間違っても、なにかポジティブなことを言おうとしているわけではない。客観的にみて、幸せを全く味合わないのほうが“難しい”のである。

  間違ってはならないのは、山ちゃんの結婚を、単純な因果論としてとらえてはならないということ。山ちゃんがお笑いという仕事を頑張った「ご褒美」で、今回のような幸せが提供された、というわけではないのだ。あくまでもこれは確率論なのだ。
 
 ぼくがこういことを考えるようにいたったきっかけは、三島由紀夫の小説『金閣寺』にある。

金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)

 

 
 『金閣寺』には、柏木という印象的な登場人物が出てくる。彼は先天的な「強度の内飜足」(ないほんそく)という足が湾曲する病気をもつ障害者だ。
 
 柏木はニヒリストで、足の障害があるゆえに自分が「絶対に女から愛されないことを信じていた」のだという。その「愛されないという確信」が、彼と彼の障害に存在意義を付与していたのだ。
 
 そのため、彼は「商売女」も買わない。障害者も何者も平等に扱う「商売女」を前にしては、自分の存在がなくなってしまうと考えるのだ。


 しかし、そんな彼に「信ずべからざる事件が起」こる。ある「裕福な娘」が彼に愛を告白をしたというのだ。柏木はその求愛を拒むが、彼女は引き下がらない。むしろますます彼を追いかけてくる。彼女が彼の前で「体を投げ出」したとき、彼が「不能」だったことによって「愛していないこと」が証明され、ようやく彼女は彼の元から去っていったのだという。

 この出来事は柏木をひどく狼狽させる。彼は誰にも「愛されないという確信」があるからこそ、愛を夢を見れていたという。障害のために今風に言えば恋愛市場から完全に閉め出されたことで、彼は完全な外部から、安心して恋愛を夢見られたのだ。柏木を愛する女性の登場は、そんな彼の「世界」に亀裂を生じさせたのだ。

「ある」ことの証明より「ない」ことの証明の方が難しい

 われわれが本当に恐るべきは「絶対に幸せになれない」ことではない。むしろ、「あなたは幸せに絶対になれない」というお墨付きをもらえれば、どんなに楽になれることか。

 恐ろしいのは、どんなに人を妬んで、どんなに人を呪っていようとしても、ときに幸せになれたり、そうでなくても幸せになれる余地が見え隠れすることだ。

 そして生じるのが、幸せなときと不幸せなときの落差。その落差こそがぼくらは精神を蝕んでいく。
 人間は普通にしていれば、勝手に幸せになってしまう。山ちゃんの結婚はそのことを教えてくれるのだ。繰り返すが、これはまったくポジティブシンキングではない。事実としてそうなのである。

山ちゃん結婚で手のひらを返した人たちに捧げる映画『ビッグショット・ダディ』

 

 

 もう1週間が経とうとしているが、南海キャンディーズ山里と女優の蒼井優が結婚したことは衝撃的だった。
 
 SNS上が驚きと祝福コメントであふれかえったが、その一部に違和感を覚えるコメントもあった。

 今回の結婚に際して、これまでの山ちゃんも含めて、彼をまるで聖人君子であるかのように持ち上げるコメントがあったのだ。あの妬み嫉みの芸風の彼をあげて、まるでマザーテレサのように持ち上がるのである。あんなに人格者だから、蒼井さんと結婚できたのだ、と。
 
 その滑稽な状況を目の当たりにしたとき、思い出したのが、今は亡きロビン・ウィリアムズの晩年の映画『ビッグショット・ダディ』である。

 

山ちゃんを急に持ち上げだした人が観るべき『ビッグショット・ダディ』

 ウィリアムズが演じるのは、高校で人気のないポエムの創作コースを担当するしがない教師ランス。小説家になる夢を捨てきれず、中年になった今もひそかに小説を書いては出版社に送り続けている。

 そんな彼は、別れた妻との間にもうけた息子カイルと共に暮らしている。

父が教鞭をとる高校に通うカイルは、学校では嫌われ者で問題を起こしてばかり。退学すら危ぶまれている。
 父親とはロクに口を聞かず、唯一といっていい親友と家でゲームとネットばかり…。

 かといって、カイルが実はいいヤツ…、というわけではなく、父ランスの今の彼女(学校の同僚)と3人の会食したときには、テーブルの下でケータイカメラを使用して彼女のパンチラを撮るのである。サイテーのやつだ。
 
 そんな息子が突然、あっけなく死ぬ。首吊りオナニー中に誤ってそのまま逝ってしまうのだ。

 

サイテーな息子の評価を変えた遺書

 生前もクソだったのに死に方もクソ。ランスはさすがにそれでは息子が惨めすぎると同情し、一つ大きなウソをつくことを決断する。

 カイルが自殺したように装い、遺書をしたため、「オナニー死」を「自殺」に偽装したのである。

 このささやかなウソが予想外の波紋を広げていく。

 それまで、小説の中では花開かなかったランスの文才は、息子の遺書の中で輝きを放ち、ポエティックなその内容が同級生たちの胸を打ったのである。ある学生は生前のカイルが聴いていた音楽に聴き惚れ、ある学生は生前のカイルが毛嫌いしていた彼自身のポートレートをTシャツにして嬉々として着こなし始める。
 
 一枚の遺書によって、学校中の嫌われ者だった彼は、10代のカリスマにまで仕立てあげられたのだ!実際はやっぱりクズだったのに!
 さわぎは学校を超えて、社会現象へと発展。ランスにも制御できなくなっていく…。

 映画は、一枚の遺書で、1人の人間の評価があっけなく変わっていく様を滑稽な光景を描いていく。

 主人公と共になんだかなあという思いで観ていた鑑賞者の胸のすくような開放感なクライマックスは是非、Amazon Primeなどであなた自身の目で確認してもらいたい。


 ここまで書けばもう大概の人には、何が言いたいか分かってもらえるだろう。本作のカイルの身に起こったことと、山ちゃんの身に起こったとったことが似ているのだ。
 もちろん山ちゃんは死んではいないが、映画で一枚の遺書がカイルの評価を変えたのと同じように、今回は一枚の婚姻届が、山ちゃんの人格的評価を一変させたのだ。人の中身は全く変わっていないのに。
 英語圏には、社会的に高い地位を獲得した男が、その象徴として手に入れる美しい妻のことを「トロフィーワイフ」という言葉がある。今回はまさに、「トロフィー」を手に入れたからこそその人が偉いのだと錯覚する現象が起きている。

 山ちゃん自身はきっと何も変わっていない。きっと、ゴシップ好きで、下世話で、僻みっぽく、それでいて涙もろくてクソ真面目で、そしてきっといいやつなのである。結婚なんかでそれは変わりはしないのである。

しりとりエッセイ「怒れるデブ」

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 「太った人」「デブ」というと、温厚でのんびりした人というイメージを持つ人が多いが、ぼくは全くそうは思わない。そういう意識になった原因ははっきりしている。

 

 これは、今もある渋谷のとある映画館での話だ。あるとき、チケット売り場のある階にエレベーターに何人かで相乗りになり、最後に中年の女性が乗り切ったところで戸口に立っていた男性が「閉」のボタンを押した。ぼくは正面にいたから分かったのだが、最後に乗ってきた女性のすぐ後ろに、たぶんその夫か何かであろう、100kgはあろう太った男性がいたのだ。「閉」を押した男性の角度からはそれが見えなかった。

 

 ぼくが「あっ」と声を出すか出さないか、その太ったおじさんを残してとびらが締まりかけたその瞬間、

 

ドゴォン!!

 

 取り残されかけた太ったおじさんは、サッカーでいうインサイドキックの要領で閉まりかけた扉を豪快に蹴りつけて入ってきたのだ。

 

 そのときの男性の鬼の形相の恐ろしさったらなかった。身長180cmはあろうかという巨躯(横だけでなく縦にも大きかったのだ)の男性は顔を真っ赤にして、「閉」を押してしまった男性を、じっと睨みつけていた。お前は改心する前の山のフドウか。狭いエレベーターの空間の中での話である。

 

 エレベーターに乗ろうとしたのに気づかれずに閉められた、などというのはよくあることではないか。なぜそんなに怒れるのかが不思議であった。そんなに気が短い人が世の中にはいるのか。

 

 そのとき、ぼくは失業したヨレヨレのおっさんがが障がいのある息子を養うために右往左往するというひたすら地味で暗いフランス映画が観たのだが、直前に見たその光景があまりに恐ろしすぎて、映画の内容が全く頭に入ってこなかったのであった。

 

 思えば、子どもの頃から「温厚でないデブ」には度々あってきた。デブだから温厚などという保証はどこにもない。怒れるデブはどこにだっている。もっともそれは、体型はその人の性格の指標にはならないという、至極当たり前のことなのだけれど。

1800円のガチャ…映画館の“クソ客”という大問題

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 行きつけのとんかつ屋さんなら特上ロース定食が1回注文できる。大好きな松屋のネギ塩豚丼ならば3回頼んでおつりがくる。Netflixなら2ヵ月分映画・ドラマが見放題だ。

 

 ぼくにとって、映画館で1作観るために支払う「1800円」はそういう金額である。4DXなら3000円近くになることもある。なのに、それでも、その体験の満足度は、ほぼ「くじ運」のようなところがある。周囲にクソ客がいることで、著しく下げられるのだ。

 

 昨日、しょこたんことタレントの中川翔子の以下のツイートを読んで震撼した。

 

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190508-00000031-sph-ent

 

 不幸な事故である。たぶんこのクソ客も、勘違いながら「後ろの客に席を蹴られた」ことで鑑賞の邪魔をされた「被害者」なのだ。劇場の設備に何か問題があったのかもしれない。それにしても、なにも後ろの席にジュースを引っ掛けることはないだろう。その一点において、この客は問答無用で即座に「クソ客」である。

 

 ぼくはしょこたんのツイートを読んだとき、率直に「怖い」と思った。劇場鑑賞回数が多いほど、こういうやばい客に出くわす確率が高まるのが当然である。いつかぼくも、しょこたんと同じ席に座り、頭のおかしな周囲の客に因縁をつけられるかもしれないのだ。

 

 現にここまではいかないまでも、過去にクソ客ガチャは何度も引いてしまっている。以下がその中のごく一部だ。

 

・外国人観光客と見られるめちゃくちゃ会話し続ける客


・謎のビニール袋をくしゃくしゃやり続ける(これはほかの客がキレて収まった)


・お前くじ引いてんのか、というぐらい1回ごとにポップコーンごそごそ取り出す客

 

 まだまだある。挙げだしたらキリがない。

 クソ客がいることで、鑑賞そのものに悪影響を与えられる。しょこたんのツイートで共感したのは以下の部分。

 

あまりにもびっくりしたけど、上映中だし黙ってそのまま映画みてましたがショックで内容が頭に入らなかった。。

 

 分かる…分かるよ、しょこたん。頭のおかしなヤツが近くにいたって分かったら、どんな映画であろうと頭に入ってこないよ。

 

 世の中いろんな人がいる。外出したら非常識な人や頭のおかしな人に遭遇することもある。それはしかたないことだ。しかし、映画館がほかのシチュエーションと異なるのは、「クソ客と分かったとしても、しばらく近くにいかなければならない」という恐怖である。勇気を出して「やめてください」と注意したとしても、「終了後にぶん殴ってくるのではないか」という、映画よりもスリリングな味わいたくない恐怖を抱き続けなければならない。

 

 どうしてそれでも劇場に通うのか。端的にいって、スクリーンで観る映画とそれ以外で観るそれは「別物」だからだ。そして、前者で観るほうが圧倒的によい。前者で観たからこそ好きになった映画も、その逆はないだろう。没入感が段違いだ。

 

 「モノ消費からコト消費へ」と叫ばれているが、「劇場鑑賞」とは元来そのコト消費の王様である。映画館で観る映画、という究極の体験型アトラクション。だからこそ映画館に行くのだが、そこには計算できない「他の客」という不確定要素が待っているこのジレンマ。

 

 鑑賞体験を邪魔されず、なおかつ劇場鑑賞なみの鑑賞体験を得るために「ホームシアター」という手もある。実はぼくの家にもホームシアターはある。これは明確に自慢だが、自宅に地下室があり、そこに「ホームシアターごっこ」のようなものをしているのだ。しかしまだまだ「ごっこ」の域は出られておらず、劇場鑑賞には敵わない。

 

 いっそ、映画館を一蘭のようにはできないものだろうか。

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一蘭インスタグラムより)

 

 半分冗談であるが、半分本気である。

【滑り込み】オレ的シネマランキング平成30・31年版【セーフ】

ひっそりとサボっておりました毎年恒例映画ランキング。もはや遅すぎるということで今回は平成30〜31年ランキングとして発表します。

 

去年は劇場で90本、今年は4月末までで23本観ました。特に昨年は、一昨年が64本だったのでずいぶん増えましたが、これは上半期の無職期間(説明割愛)に、TOHOシネマズの6000マイレージを活用して1ヵ月無料で通いまくったおかげだと思われ。

昨年に続き、アマゾンプライム沼にハマっております。さらに最近はNetflix沼にもハマりつつあり、両足を2つの沼に入れながら、今後はますます劇場から足が遠のきそうな恐れも。

 

それでは行ってみましょう、平成30・31年ベストテン!


【過去5年のランキング】
2012年シネマランキング

2013年シネマランキング

2014年シネマランキング

2015年シネマランキング

2016年シネマランキング

2017年シネマランキング

 

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スリー・ビルボード

ビューティフル・デイ

ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ

タクシー運転手 〜約束は海を越えて〜

レディ・バード

⑥キングダム

ボヘミアン・ラプソディ

フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法

⑨アクアマン

⑩運び屋

《次点》

ミスター・ガラス

斬、

モリーズ・ゲーム

魂の行方

ウインド・リバー

 

【解説】

とにかく海外映画に豊作が多かった印象の平成30・31年。

C・イーストウッドの⑩は、巨匠のシンプルでいて丁寧な手腕が健在。白人の高齢者の「運び屋」という役どころは、共和党支持者で知られるイーストウッドだけど強烈なアイロニーが込められている。昔の映画のようなシンプルな邦題も最高。

⑨は、マーベルに遅れを取っていたDC念願の大ブレーク作。最後のインスタ映えする大合戦は珠玉の出来。『バレット』ではじめて観たときに「こ、こいつはタダもんじゃない…!?」と思ったらジェイソン・モモアの当たり役である。

⑧はインスタ映え世代ならではの一作。リチャード・リンクレイターっぽい手腕で、大変な現実をファンシーに生きる少女たちを描く。

⑦は、もうオープニングの『Somebody To Love』で激アガりしてしまった一作。史実との明確な違いをどう捉えるかで評価は変わりそうだが、僕は「あの時、自分の中に沸いた感動は本物である」という観点から許してしまう。自分に甘い人間なのだ。

⑥はつい先日公開されたばかりだけど「これ以上の実写化はもう望めない」と言えるほどの一作。なにより、否が応でも俳優へのリスペクトが募る。吉沢亮くんなら掘られても良い。

⑤はディス イズ 青春という一作。母娘問題に悩まされた人にほど観てほしい。

④は、隣国の秀作。自国の汚点をこれほどまでに批判的、なおかつ説得的に描くことが邦画にできるだろうか…。

③は、ある意味いま一番ホットなメキシコを舞台にした『ボーダーライン』続編。前作の「救いのなさ」に加えて、今作はさらに「不毛さ」も加わって鉛のようにどんよりしていて、かなり好み。

ホアキン・フェニックスの名演光る②は、新しい時代の『タクシードライバー』と言える趣。

①は、結局よくわからないのだけど、何度も観返してしまうのは、映画に力があるからだろう。「人は"善く"なることはできるのか?」を強烈に問いかける一作。下手なカーボウイよりカッコいいフランシス・マクドーナンドにも注目。

 

今年は各部門賞も設けました……

★押し付けてくる思想が濃かったで賞

ミスター・ガラス

【選評】シャマランさん本人はそれを素朴に信じてそう、という印象も含めてエンタテイメント。

★ネット描写が楽しかったで賞

シュガー・ラッシュ:オンライン

【選評】グーグルもツイッターフェイスブックもペイパルも協力、素敵やん…

★開始数分でアガりまくるで賞

モリーズ・ゲーム

【選評】開始直後のまくし立てるようなヒロインのナレーションがこぎみよく、なおかつ彼女の神経質で完璧主義な性格もあんなほのめかしている仕掛け

ボヘミアン・ラプソディ

【選評】前述したように『Somebody To Love』が全てを持っていく。

★刀が観ているだけで怖いで賞

斬、

【選評】もう刀が映るだけで怖くなってくる。そしてそのことはストーリー的にも意味をはらんで行き…。詳しくはブログ参照のこと。

 

さきほど海外映画が強かったと書きましたが、正確に書けば、A24とフォックスサーチライトが強かった! 驚くべきクオリティの高さ。

令和もこの二社を中心に回って行くのでしょうか。

 

それではこれから、平成最後の劇場鑑賞で『アベンジャーズ/エンドゲーム』観てきます(この作品がランキング変えちゃう可能性大いにあり)。

しりとりエッセイ「通じない」

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 2月の某日、渋谷駅のホームでアジア系の外国人女性に話しかけられた。どこか行きたい場所があるようだが、行けなくて困っているようだ。

 

 言葉の雰囲気からおそらく中国か台湾から来たのだろう。妙齢の女性で、日本語は全く話せない様子。ぼくが拙い英語で二三言話してみたが、英語もダメみたいで首を横に振る。さあ困った。


 翻訳アプリでなんとか「渋谷駅」「東京駅」という2つの場所が絡んでいることまでは分かったが、東京駅に行きたいわけではないらしい。考えうる限りのさまざまな可能性を翻訳アプリにかけて彼女に聞いてもらったが全くダメ。ここまで分からんものか。どうすりゃいいんだ。


 片方には必死に助けを求めている人がいて、もう片方にはその声を聞いてなんとか助けてあげようとしている者がいる。なのに、言葉が通じないこのもどかしさ。ぼくら2人はそのもどかしさに、思わず途中で笑いあってしまった。

 

 結局、駅員のところまで連れて行ってあげたところでぼくはその女性と別れたけれど、助けてもない自分がやたら充実感を持っていることに気づいた。その原因を分析すると、おそらくぼくと彼女は「お互いに話が通じない」というただその一点において、強烈に通じ合えたのである。

 

 ところで、結局彼女は渋谷のど真ん中で、どこに何をしに行きたかったのだろう。永遠に知ることのできない謎が残った。