いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

24歳パリピ女子「寂しいのかな うちら」 渋谷ハロウィンに年齢サバ読んでまで追いすがる理由

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今年も、ぼくとDNAが1%も一致しないんじゃないかというバカが大暴れして物議を醸した渋谷のハロウィン。特に今年は、たまたま通った軽トラが悪ふざけで横転させるなど、警察沙汰の大事になっていた。

 

彼ら彼女らは好き勝手してさぞ楽しいのだろうな、そう思っていた。

 

しかし、先週放送されたテレビ東京の『家、ついていってイイですか?』は、そんな彼らの意外な“さみしさ”を垣間見れたような気がした回だった。

 

毎週、終電を逃した人に帰路のタクシー代を支払う代わり、自宅でインタビュー取材をお願いするという趣旨のこの番組。今回の番組はハロウィン真っ只中のバカでごった返す渋谷センター街での取材を敢行し、ショートパンツのエッチなピカチュウのコスプレをした24歳のパリピ(パーティーピーポー)トリオ、しおりさん、みおさん、みきさんと交渉が成立。3人ともどもみおさんの自宅にタクシーで向かうことになった。

 

道中で「今日、渋谷ではみんなで22って言ってました。さすがにこの格好で24はやばい」という、アラサー以上の女に聞かれたら○されるぞというような会話をしていた3人。

 

なぜ年齢のサバを読んでまでして、渋谷のハロウィンに駆けつけるのかというと、「(渋ハロに)行かないと“おばさん”を感じるから」「『もうやめちゃったんだ』みたいになりたくない」のだそうだ。

 

ここでぼくは「なるほど」と思った。彼女らが毎年駆けつけるのは、渋谷のハロウィンが放っている何らかのポジティブな価値に引き寄せられているからなんかじゃない。渋谷ハロウィンに顔を出しておくことで、一応は装える「若さ」に縛られているのだ。それを人は消去法と呼ぶ。

 

番組では、3人の過去のコスプレも写真で紹介されていたが、彼女らが「昔はモテるためには行っていなかった」と語っていたように、たしかに以前のそれはエロ路線ではなく、わりとホラーテイストだ。年齢と正比例してエロテイストになっていくのが、まるで逃げていく男の関心に追いすがっているようで切ない。いや、だから、アラサーからしたら24も22も変わらないけどな。

 

みおさんの自宅では、元カレがあるお笑い芸人だった、という思わぬ情報や、「パリピとヤ×マンは別もの。『お前の身なりでヤれないんかい!』で終わる。だから(私は)モテないんです」といった思わぬ名言が飛び出した。

 

VTRでは終始楽しそうで、今の自分たちに肯定的だった3人だが、最後にみおさんがこぼしていた言葉が印象的だった。

 

「寂しいのかな うちらって」「無理やりかわいいって言われに行っている可能性がありますね」「ハロウィンに、かわいいって言葉が欲しくて行ってる可能性がある」

 

このVTRを観終えたとき、ぼくは、もしかしたらハロウィンで暴れちゃうバカたちも、彼女たちと同じで"寂しい人達"なのかもしれないと思ったのである。

彼らは何もあれが楽しくて、面白いと思ってやっているわけではない。

 

(誰もを魅了する力のある)真の楽しいこと、面白いことをするのには才能がいる。彼らには残念ながら、そうした面白いことをする才能がないのである。面白いことをしたいけど自分には能がない。アイデアがない。

 

もし本当に面白いことが思いつき、そしてそれを実現するに足る胆力があったならば、彼らの行き先は渋谷ではなく、日本のハロウインの本場、ガチの仮装が集う川崎市のパレードに参加しているはずだ。

 

ジャンクな食べ物、ジャンクな時間の使い方、ジャンクな人間関係と同じように、彼らが、承認欲求のジャンクな満たし方しか知らないのだとしたら、途端に憐れに思えてくる。

 

それとは別問題で、軽トラを横転させたバカたちの単車は全部ひっくり返してあげて欲しいのだが。

田中圭が『けもなれ』で演じる男の現代的な“怖さ”について

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最近、会う人会う人とドラマ『獣になれない私たち』(日本テレビ系)の話になるのだけれど、そこでたびたび「田中圭が怖い」という話になる。正確には、「田中圭がよくやっていそうな役柄」のことであり、実際のところは「田中“系”」になるのだが。

 

『けもなれ』の田中圭の「怖さ」

同作において田中が演じているのは、新垣結衣が演じるヒロイン晶の彼氏・京谷。京谷は晶の前職の同僚で、仕事で協力し合ううちに惹かれ合い、結ばれる。

京谷は大手デベロッパーに務め、稼ぎは少なくなさそう。派遣社員だった晶に対しても横柄な態度は取らず、リベラル(のように思える)。晶に対して声を荒げるようなことはなく、ぶしつけなわが母から彼女を守るような素振りもある。もちろん、晶のことを愛している。

夫に選ぶには申し分ないはず。

しかし、京谷が抱えているある問題のせいで一緒に住めず、2人の未来はお預けの状態となっている。

その宙ぶらりんの状態で、晶を待たせている京谷なのだが、それが田中系男子の「怖さ」なのである。

その「怖さ」が際立ったのが、先週放送された第3話。

4年も待たされ、さらにいろいろな問題も重なり、晶がついに京谷に対して2人の将来の話を京谷に投げかける。その際に京谷は晶に「別れたい?」と聞き返すのである。

ここでぼくは、「あー、これだわ。これが田中系の田中系たるゆえんだわ」と思った。

「別れよう」ではなく、「別れたい?」という問いかけである。

あくまでも選ぶのは相手であり、自分では選ばない。ここに、田中系男子の病理が隠されている。

どちらか一つを選ぶ気持ちはない。なぜなら、「選ぶ」ということは「選ばなかった方」が傷つけるからだ。田中系男子に「捨てる」ことで返り血を浴びるような覚悟はない。だからこそ京谷の口から出る言葉は、「別れよう」ではなく「別れたい?」なのである。

そして、そこには晶が「別れたい」と言えないことを知っている姑息さも隠されている。晶も「その聞き方はズルい」といらだったように返していた。

恐ろしいのは、こうした男に捕まった女性である。

一見優しい、思いやりのある男である。しかし、どこまで自分からは決断しないで先送り。

もし女性からロスカットしなかったとき、最後に泣きを見るのは、取り返しのつかない時間という資産を浪費してしまった自分なのである。

そしてその責任を田中系男子はたぶん取ってくれないだろう。

昔なら「年貢の納め時」だとかなんだと言って、そういう男も捕まっていたはずである。「結婚しなくても、別によくね?」が選択肢として成立してしまった今だからこそ、田中系男子は増えていくと思う。

 

おっさんずラブ』との違い

同じ「酷い男」ならば、本作において松田龍平が演じている恒星のほうがまだマシである。恒星はプレイボーイで女性とワンナイトラブも辞さない。いわゆる「女の敵」である。

しかしそれは同時に、「あんなクズ男!」と潔く切らせてくれる、ということでもある。

大局的に物事を見れば、まだ彼のほうが「優しい」ではないか。

思えば田中は、今年上半期に席巻したドラマ『おっさんずラブ』において演じた「はるたん」もそうだった。吉田鋼太郎林遣都という両手に花(???)を抱えて同じような役をやっていたのである。

ただし、あの作品では最後に「選んだ」ことにおいて、はるたんは「男」になるのである。

今のところ、「けもなれ」において、京谷は明確に「選ぶ」そぶりを見せない。それどころか、彼の周辺ではさらに問題が同時多発的に起きそうである。

 

誰でも優し良いのは誰にも優しくないのと同じ

 田中圭が演じるのは、誰にでも優しい男である。

しかし、誰にでも優しいということは、誰にも優しくないことと同義であるということである。

女性陣は「選ばない男」田中系男子を早めに見抜く選球眼を磨くべきであるし、「女性を尊重し、"常に"優しい」という自覚のある男は、自分は田中系男子に一歩足を踏み入れていないかをチェックしておくべきである。 

“獣になれない”とはどういうことか? ドラマ #獣になれない私たち 初回レビュー

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かつて、動物から人間を区別する定義を「労働」であると記した偉人がいた。
ところが、働きすぎると思考がパンクし、精神を病んでしまい、行動が衝動的になっていく。動物から人間を区別したはずの労働なのに、それをしすぎると今度は社“畜”になってしまう、この何たる皮肉!

 

ぼくらは本当に動物でなく人間なのだろうか。
新垣結衣主演、野木亜紀子脚本の『逃げ恥』コンビによる待望のドラマ『獣になれない私たち』の第1話は、そんなことを突きつける。

 

新垣が演じるのは、ECサイト制作会社に務め、ワンマンな豪腕社長にまるで小間使いのようにこき使われる営業アシスタント。

人の良さから同僚のカバーにも回るが、そのたびにまるで自分のことのように社長に詰められる。第1話では、人の良さからなんでも引き受けてしまった晶が、パワハラとセクハラのダブルコンボを食らい、限界まで追い詰められていく様が描かれる。

 

けれど、晶はそのあと苦痛から逃れるための「衝動」には走らない。

駅のホームで電車が来る間際、あと一歩前に進めば…というところで踏みとどまる。クラフトビールバーで酔っても、顔見知り程度の男=松田龍平演じる恒星と一夜を過ごしたりなんかはしない。そして、何もかもほっぽりだして「辞めてやる」と会社に辞表を提出もしない。

 

そのすべては「衝動」的なものであるが、晶はそれらを回避する。

 

翌日、晶はそれまでにない、真っ黒なスーツに身を固めて会社に現れ、ワンマン社長に対して「これ、私の業務内容の改善要求です」と突きつける。

人間と動物の違いは労働だけではない。自らの意思で「変わること」「変わろうと努力すること」ができるのだ。

 

けれどもそれは、「獣にはもう戻らない」ことを意味する。

疲れ果てた晶があるところで、「今は恋がしたい。誰かに恋をして、すごくすごーく好きになって、なれたら、新しい恋ができたら、何か変わるのかな」と独り言つ。

でもそれは、単純に恋愛で快楽を求めているわけではない。晶の言葉には「恋愛していれば嫌なことを忘れられる。そんな生きものであったら楽なのに」という諦めのニュアンスも含まれている。

 

ぼくらはもう、衝動に身を任せても何も解決しないのをわかっている。もうそんなの終わりにしようじゃないか。獣じゃあるまいし。
これから『獣になれない私たち』が描こうとしているのは、そんな人間の尊厳をかけた戦いなのかもしれない。

巨人・由伸監督が辞任! あの「メモ」には何を書いていたのか

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4年連続でペナント奪還に失敗したプロ野球読売ジャイアンツ高橋由伸監督が、就任3年目にしてついに辞任することがわかった。

 

昨夜、このニュースがネット上を駆け抜けたとき、別に巨人ファンでもないぼくがまず思ったのは、「よかったな! ヨシノブ! ついに辞められる!」ということである。

 

端正なマスクに、天才的なバッティングセンス。

現役時代のヨシノブは、おそらく巨人ファンでなくても、アンチ巨人でも、誰もが見惚れていただろう。

むしろ、ヨシノブのプレーに惚れないのは野球ファンじゃないよ? とまでいえるかもしれない。それぐらいスター選手だった。

 

そんな彼が、半ば強引に現役から引きずり降ろされたのが3年前だ。選手兼任ではない。前代未聞の、現役生活を犠牲にした監督打診。

 

監督時代のヨシノブを見ていると、ぼくに似ていることがよくわかる。

何を言ってんだと、言われるかもしれない。

けれど、ある二点において、ヨシノブはオレタチ、カレはオレなのだ。

 

まず一つ目は、「辞めたいのに辞められない仕事をしている」、ということ。

本人は監督を打診された当時、「光栄」という言葉を口にしているが、それは悪い意味で「大人」の嗜みというもの。

 

第一、実際に監督になってからの3年間。彼が楽しそうであったことがあるだろうか。

唯一、楽しそうな表情を見せたのが、昨年のオールスターで自軍の捕手小林が珍しく本塁打を打ったととき、「シーズン中に打て」とばかりにその場で地団駄を踏んでいたころだ。

 

それ以外、彼は通常、ベンチでほとんど感情を失ったように突っ立っている。どう考えても「やりたくなさそう」で、「辞めたいのに辞められない」ようにしか見えなかった。

 

ヨシノブとオレタチをつなぐ点、2つ目。それは「メモ」だ。

監督中のヨシノブの代名詞といえば、緻密な戦術でも、気を衒った采配でもない。メモである。

3年間、シーズン中のベンチでやたらと目撃されていたのが、彼が手帳を取り出しメモを取る姿。

打たれてはメモ、打てなくてはメモ、負けてもメモ。メモメモメモ。

一体、メモには何が書かれていたのだろう? 一説によると、紙一面が「辞めたい辞めたい辞めたい」で埋め尽くされているという説も実しやかに囁かれてはいるが、真偽は不明だ。

 

ヨシノブは3年間、メモを取り続けてきた。

 

しかし、その「メモ」の内容に意味がないのは明らかだ。メモに有益な表情であったなら、あの巨人を率いて3年間、タイトルなしなんて芸当をやってのけられるだろうか。

 

あの「メモ」の内容自体には意味がない。では、何なのか。

教えてやろう。あれはバツが悪いときについついやってしまう「手グセ」だ。

なぜわかるかというと、何を隠そう、ぼくにもメモを取る癖があるのだ。

 

仕事でミスしたとき、上司に怒られるとき、大抵ぼくはメモを取る。

 

でもそれは今回の反省点の洗い出しや、次回への対策を書いているわけではない。

辛い時間が過ぎるのをひたすら耐え忍ぶため、メモはそれがちょっとでも安らぐように、顔を下に向けるための口実にすぎない。ボクサーもパンチをもらうときはあごを引くだろう。あれと同じだ。

 

ヨシノブは今まで、何百、何千というページをめくっただろう。何本のペンをメモとして消費していっただろう。何リッターのインクをメモ用紙にしみこませていっただろう。

その歴史は巨人の歴史、ではない。ヨシノブ個人の苦悩の歴史であり、どちらかというと囚人が毎日壁に掘る正の字に近い。いつ釈放の日が来るとも知らず、ひたすら待つ囚人のように…。

 

なぜ、ヨシノブは奴隷のように、自身の人生を搾取され続けてきたのか。なぜ、「辞めたくても辞められなかった」のか。

野暮なことをわざわざ書くまい。ネットで検索すれば呆れるほどすぐにわかること。人の人生を左右するのは、今も昔も呆れるほどシンプルな問題なのだ。

 

そんなことより今は、ヨシノブが解放されたことを言祝ごうではないか。

 

「辞任」と言えば悲しい響きだが、ヨシノブの心は咆哮しているはずだ。映画『ショーシャンクの空に』で土から出てきたティム・ロビンスが、土砂降りの雨を降らす天に向かって叫んだように。それは勝利の咆哮なのだ。

ヨシノブの第二の人生が、今、始まる。

 

 

 

 

「世界をより良くするために仕方ないんだ!」 独善的な悪役って最高だよね

独善的な悪役って良いですよね。

世界を制服したるんや! とか、人類を破滅させたるんや! とか、人の迷惑を目的とする単純なバカより、「世界をより良くするために仕方ないんだ!」と悪を断交する悪役は、観ていて「お前はどこで間違ってしまったんや…!!」と悲しい気持ちになります。

正しいことをしようとしていたのに、どこかでボタンの掛け違いがあって、悪の道に堕ちていく。その存在自体に、独特の切なさがあります。

 

今日はそんな「世界をより良くするために仕方ないんだ!」系の悪役を3人紹介します。あくまでも直近の思いついた奴らです。

 

リッチモンド・ヴァレンタインさん(『キングスマン』より)

 

世界的なIT長者、ヴァレンタインさん。

ファッションのモデルはデフジャム創始者ラッセル・シモンズらしいですが、大金持ちになったら社会貢献活動に精を出す傾向がある海外セレブらしく、彼もまた「世界をより良くしたい」やつです。

しかし、その「世界」とは必ずしも「人間界」と同義ではありません。

彼にとっての「世界」とはまさしく地球であり、いま危機に瀕している地球のために、そうだ! 人類を減らせばいいじゃん! と思いつきます。 

ヴァレンタインさんは、人を凶暴にする怪電波が出る無料SIMを開発。全世界に無料でバラまき、中流貧困層に殺し合わせようと画策するのです。

あと寸前のところでキングスマンに阻まれたヴァレンタインさん。暴力と血が大の苦手ということで、最期は自分の流血を見てゲロはいて死ぬという体を張ったギャグを見せます。

 

オジマンディアスさん(『ウォッチメン』より)

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子どもはおろか、大人が観るのにも近現代史の予備知識がないと厳しいDC映画『ウォッチメン』からは、オジマンディアスさん。

人間離れしたスピードと頭脳を兼ね備えているオジマンディアスさんですが、彼の「より良き世界」を阻んでいるのは東西冷戦です。

いつ、どちらが核兵器のボタンを押すともわからない緊迫した状況。

そんな時代に、オジマンディアスさんはその明晰な頭脳でとんでもない計画を思いたってしまう。それは、自分の手で何千万人もの罪なき人々を虐殺し、さらにその罪を仲間の超人(Dr.マンハッタン)になすりつけることにより、人類共通の敵を作る、というものでした。虐殺を防ぐためにまず虐殺する。このコロンブスの卵的な発想で、彼の狙い通り東西の壁は崩れます。

 

オジマンディアスさんの手法は最低最悪ですが、映画はついにその解決策を超えるものを出さないまま終え、鑑賞者はなんとも気持ちが暗鬱となりますが、ある意味、リアルっちゃリアルです。

ウォッチメン (字幕版)
 

 

サノスさん(『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』より)

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そして最後、今最も注目を集めているといえる「世界をより良くする」系悪役最右翼が、サノスさんです。

なにしろ、あのアベンジャーズをコテンパンにしてしまう。あまりに強すぎてアベンジャーズファンのヘイトを溜めて、アゴが小籠包みたいになってるくせにと陰口を叩かれているとかいないとか。

サノスさんも上の二人と同様に「より良き世界」を望んでいます。だから、サノスはヴィラン初のマーベル映画の主役だったんじゃないか、という説もあります。

そんなサノスさんの「良き世界」とは、調和が取れている世界のこと。そのために彼は、世界中の生き物を半分に減らす、と言い出します。

え、半分に減らせばバランスが保たれるの? そんな簡単なの? というツッコミはとりあえず脇に置いておいて、サノスさんはそれを達成。

『インフィニティ・ウォー』は最後、とんでもない終わり方をして、鑑賞者(≒マーベルファン≒アベンジャーズファン)の気持ちをどん底に落としてしまいます。

 

 

 

もちろん、このお三方だけでなく、「世界をより良くするために仕方ないんだ!」系の悪役はずーっと前からいっぱいいたわけである。

みんなで、思い思いの「世界をより良くするために仕方ないんだ!」系悪役に思いを馳せてみればいいんじゃないか。

【前夜祭】『今田×東野のカリギュラ』シーズン2配信記念 シーズン1の神回を一挙紹介!【とりあえず観てみて】

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Amazon Prime Videoのオリジナル番組『今田×東野のカリギュラ』シーズン2が、明日31日から配信になる。

コンプライアンス的にNG、くだらなすぎるといった理由で、一度は闇に葬られた企画を甦らせる、というのがコンセプトのこの番組。個人的にはシーズン2配信は大歓喜なのだけれど、イマイチ世間は盛り上がっていない(気がする)。

というわけで、シーズン2配信日の前日ではあるが、ここで、シーズン1全20回の中から個人的“神回”を振り返っておきたい。

もちろん、プライム会員なら全て今すぐ観られるゾ。

 

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SARAI選手権(エピソード17)

お笑い芸人という素人が、プロのレクチャーを受ければ人を"さらう"ことができるかを検証する企画。『サライ』を歌うのが定番になっている例の涙と感動の番組とは一切関係ない、恐怖と暴力の企画である。

見どころは、何も知らずに襲撃される被験者たちの方である。今やバラエティーアイドルと化した柔道家篠原信一も、身の危険を感じて一瞬鬼神のような表情になるので要チェック。この年、M-1王者になるとろサーモンも、こんな損しかない仕事を引き受けていたのだから、人生何があるかわからないものである。

なお、この後にTBS『水曜日のダウンタウン』が芸人を拉致しているところを通行人に目撃されて騒動になっている。地上波の「壁」はこのあたりにあるのかもしれない。

 

教えてシリガール ~セックスレス大国 日本を救う~(エピソード16)

巷のビッチ=「シリガール」の武勇伝をひたすら聞くという企画。全2回だが、特に衝撃的だった2回目がオススメ。

この回で童貞AD藤原くんが、収録終わりの彼女たちの楽屋を訪れ、今田と東野にイヤモニで指示されながら「筆下ろし」をお願いするという裏企画が実行に移された。ぬるいオチがついて終わると思いきや、そこには衝撃的な展開が待っていた…。

ビッチについて「エロい」でも「面白い」でもなく、初めて「怖い」という感情を覚えた神回である。

 

訳あって地上波ではなかなか会えない、あの人は今!? ~後藤祐樹編~(エピソード13)

後藤真希の弟、後藤祐樹をゲストに迎えた回もなかなか見ごたえがある。当時のトップアイドルの弟にして、自身も華々しくデビューを飾った祐樹。その後の転落人生は多くの人が知っていることだろう。

しかし、そんな彼の「今」を知るものはほとんどいないはず。事件を起こし、表舞台から消え去った人にも「今」があることを改めて気づかせてくれる。

とくに獄中生活のエピソードは地上波ではなかなかお目にかかれないレベルのヘビーなものだ。

現在ネット界隈で「タトゥー」の是非の議論が沸騰している。りゅうちぇるのように肩にシールみたいにあるのでなく、ガチで全身タトゥーまみれ、今も増え続けている後藤の話は、今だからこそ聴いてみてもいいかもしれない。

 

夜の嬢王は誰だ!?芸人の嫁 指名ダービー(エピソード10)

そして、ぼくがこの番組で一番笑ったのがこの回。美人妻と誉れ高い芸人の嫁に集まってもらい、風俗店用の宣材写真を作成。風俗店で、何も知らないガチの風俗客に指名してもらったやつから勝ち抜けるという競技。「気が触れてる」と言わしめた企画である。

この回で、流れ星瀧上の嫁というとんでもないど淫乱、もといニュースターが誕生する。この活躍のためかは不明だが、彼女はのちにフジテレビ『アウト×デラックス』にも呼ばれることとなる。

もう一つ、せっかく宣材写真まで撮ったのに誰にも指名されず、最下位の憂き目にあうある妻のせつない表情も印象的だ。

 

その他にも、「ホームレスインテリクイズ王決定戦」や「うちの親は大丈夫! ガチ詐欺選手権」など、大喜利の回答のような、到底実現できなそうな企画がすでに実行に移されている。

とにかく観てくれればいいから!

アディオス!!

みやぞんとコジコジに通じる「今」を肯定する言葉たち

今年の『24時間テレビ』で100kmマラソンに挑戦したANZEN漫才のみやぞんが、SNSで良いことを言っていた。

 

何かやったから人間価値があるわけじゃない ただ生きてるだけで人間十分価値がある

 

これを、できるだけ楽をして生きていきたいぼくのような人間が言ったならば、大したことはない。右から左へと受け流されていただろう。

この言葉を、約165km諦めずに、弱音を吐かずに、走ったり泳いだり自転車こいだりし続けた男が言うセリフだから、ものすごくカッコいいのである。

 

そして、これこそが『24時間テレビ』が本来持つべきメッセージ性ではないか?

毎年、障害者に何かに挑戦させては、できたことをみんなで祝福する。それはそれで感動する人もいることだろう。

でも、それは裏を返せば、ありのままの彼らでは感動できないの? という話にもなる。

みやぞんは言う、本来人間は生きているだけで価値があるのだ、と。

奇しくもこれは、みやぞんが尊敬する大先輩、明石家さんまの至言、「生きてるだけで丸儲け」に通じるものがある。これを言うさんま師匠がただたんにネアカなお笑い怪獣ではなく、家族が不幸な死を遂げたことがあるという背景を知ると、その言葉の陰影に深みが増す。

 

みやぞんがSNSに言葉を投稿したのに前後して、漫画家のさくらももこが亡くなったという報があった。

みやぞんの言葉を聞いたこととリンクして、さくらさんの描いた漫画『COJI-COJI』という漫画の忘れられないシーンを思い出した。

 

あるときコジコジは担任教師の「先生」に呼び出され、「向上心がなさすぎる」と叱られる。何をしているのかと聞かれたコジコジが、毎日の悠々自適の暮らしを答えたところ、先生に「なにっ!? 遊んで 食べて 寝てるだけじゃないかっ」と詰め寄られる。

ここでコジコジ「えっ 悪いの? 遊んで食べて寝てちゃダメ?」「盗みや殺しや サギなんかしてないよ 遊んで食べて 寝てるだけだよ なんで悪いの?」と逆に聞き返す。

混乱した「先生」が、今度はコジコジに「将来は何になりたい?」と聞く。

するとコジコジは言うのである。

コジコジだよ コジコジは生まれた時から ずーっと 将来も コジコジコジコジだよ

 

どうだろう、この圧倒的な自己肯定感。

これを、「なりたいもの」や「したいこと」をやたら強要されていた子どもの頃に読み、救われたものである。

知っている人も多いだろうが、このコジコジのキャラクターはデザインからしてものすごくゆるい(当時はゆるキャラなんて言い回しはなかっただろうが)。話し方もこんな感じだ。

であるがゆえに、その素朴な言葉がかえって刺さる。 

 

みやぞんの言葉を読んだとき、さくらさんの訃報とリンクして、このコジコジの言葉を思い出したのである。

 

頑張って何かになりたい、やりたい、変えたいと思う人がいたっていい。

でも一方で、生きているままの、いびつな、欠点だらけの間違いだらけの自分を愛してやる、という視点を伝える言葉がもっといても良いんじゃないだろうか。