いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

死んだ父と黒柳徹子の話

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突然であるが、ぼくの目標とする人物は黒柳徹子である。最近決まった。

なぜかというのを説明する前に、父について語らなければならない。

 

先週の13日で父が死んで18年になる。

18年も経っているので特にこれといった感慨はなく、今回も例年のごとく母のLINEが来るまで忘れてしまっていた。

父がどんな人だったのかは、実のところよくわからないが、その死という客観的事実から抱くのは、「かわいそう」という感情である。

それは何も、がんになり、放射線治療で苦しみに苦しんだあげくに報われず、たった45歳で死んだということに対してではなく、「“その先”が観れないなんてかわいそうだな」ということである。

 

だって、考えてみてほしい。

2000年に死んだ父は、アメコミ映画でも『スポーン』や『ブレイド』は観ていても、MCUはおろか、『ダークナイト』、サム・ライミ版の『スパイダーマン』さえ観ていない。

ミッキー・ロークを過去の人だと思っている。そのあと『レスラー』でちょっと復活したのに。

ジョン・ウーの『フェイス/オフ』を大絶賛していたが、ウーの『ミッション:インポッシブル2』や『レッドクリフ』を観ていない。『ペイチェック』……は観なくていいか。

好きだったイーストウッドが、2000年代にさらに『ミスティック・リバー』や大傑作『グラン・トリノ』を撮るのに、それも観ていない。

スピルバーグについては、『プライベート・ライアン』を父子で観て圧倒されたが、そのあともたぶん、観たら圧倒されるような映画ばかり彼は撮り続けている。なのに観ていない。

あげだしたらキリがない。もっと他にもある。

父はそれらを全部観ていないのである。なんてもったいない!

 

そう、死んだ父について考えるとき、「かわいそう」の次に出てくる感情が、この「もったいない!」である。まだまだ世界は未知のもので溢れているのに、それを観ないなんてもったいない! 死は彼の意思ではなかった。なので「もったいない」であり、「かわいそう」なのだ。

 

ここで話は冒頭に戻る。

世界はまだまだ観ていないもので溢れ、これからさらに増殖していく。観ないのは「もったいない」。だからこそ、ぼくの当面の目標は黒柳徹子なのである。

世界をたくさん観て、受け止めるためには長生きする必要がある。

けれど、生きていてもボケて意識が混濁した状態で観るのなら元も子もない。

 

そんな中で、徹子は本当にすごい。先日もインスタグラムの動画で話しているところを見た。『徹子の部屋』の視聴者であるなら、特に驚くほどのことではないだろうが、84歳にしてあんなに明瞭にしゃべることができるのは、実はすごいことだ。

www.instagram.com

 

80年も90年も生きていたら老いはつきものだ。

しかし、なぜか「歳のわりには若い」「老けている」などとビジュアルの老化にはみんな敏感だけれど、ことのほか脳の老化についてはあまり語らない。

一番怖いのは意識の老化だ。徹子と同じ84歳で、あそこまで物事に鋭い観察眼を向け、論理だてて明瞭に話すことができる人が何人いるだろうか。

 

だからぼくは徹子を尊敬するようになった。なりたいとさえ思っている。

当面の目標は、少なくとも150歳まで生きることだ。それも、徹子のように明瞭な意識を持って。

父が観ることのできなかった世界をできるだけ長く、できるだけたくさん、全力で受け止めるために。

はあちゅう氏の「ノリで楽しむ社会」発言になぜ違和感を覚えるのか

「ノリが悪い」などと言い、自分の考えに共感しない人間を批判するのはろくなものではないのが相場だが、先日このようなツイートを目撃した。

 

 

「3億円の借金がある」とホラを吹き、ファンから寄付を集めようという詐欺同然の行為を寸前のところで思いとどまったキングコング西野亮廣氏を擁護する展開でこう言い放ったのが、著名ブロガーもとい、作家のはあちゅうである。

 

普段なら従来通り「相変わらずろくでもないな」と読み飛ばしてしまうが、この人が言うと少し看過しきれないことがある。

 

なぜなら、はあちゅう氏は件の「#metoo」運動において、自身の被害を告発し、旗振り役のような立場に躍り出ていたからだ。

知っている人も多いだろうが、彼女がバズフィードの記事において、会社員時代に当時の上司から深夜に呼び出されるなどのセクハラを受けたことを告発していた。

 

その告発そのものは、別に間違っているとは思わない。そして、セクハラ被害を真剣に訴えていた人が、別の場面において楽しみを見出していることを、とやかく言うつもりもない。言いたいのはそういうことではない。

 

問題視したいのは、西野某の問題行動について、はあちゅう氏が「ノリ」の名のもとに容認しようとする構えを見せたことである。

 

「セクハラ被害」と「ノリ」、その2つは一見関係がなさそうであるが、意外と太いつながりがある。セクハラ被害がなかなか表沙汰にならない背景には、「ノリ」が立ちふさがっているからだ。

 

セクハラの定義は何か。音声の録音やLINE、メールの履歴など、客観的な証拠はあるものの、それをセクハラと定義する本質的な「証拠」は、ハラスメントを受けた人そのものの「嫌な気分」という主観である。セクハラは、受けた人が「嫌だ」と思った瞬間に「セクハラ」になる

「私」が主観的に「嫌だ」と思うことは、「私以外」とは共有できない可能性もある。

にもかかわらず、受けた人の「主観」が絶対的に優位となるのが、セクハラという問題の特異な点である。

 

ここで論題にあげたいのは、「セクハラの有無は被害者の主観に委ねられるから恐ろしい」ということではない。むしろ逆だ。

被害者の「主観」であるがゆえに、被害者の立場が弱い場合、その「嫌だ」という主観は、立場の強い者が作る「ノリ」によって無効化されてしまう。立場の強い者の「嫌がられていない」という主観こそが、その場を支配する「ノリ」となるからだ。

 

これが、「#metoo」というムーブメントが起きる前まで、セクハラを顕在化させることが困難だった一因といえよう。その場の「ノリ」の圧力に負けた被害者が、「私が笑ってすませれば丸く収まる」と泣き寝入りしてきたのが、これまでだったのではなかったか。

 

だからこそ、過去の「嫌だ」の記憶を勇気を出して解き放ったはずのはあちゅう氏が、今あらためて「ノリで楽しもう」などと安易に言ってしまうことに、ぼくは強烈な違和感を覚える。それは、彼女に当時「嫌だ」と言わせなかった「ノリ」と何がちがうのだろうか。

 

ではどうして、一度そうした困難を克服したはあちゅう氏が、いまだに「ノリ」というものに安易に物事の判断をゆだねてしまうのだろうか。

ただ単に彼女が「バカ」だからだろうか。

しかし、短絡的に他人をバカと決めつけることも、また別種の「バカ」であり、そういう結論を安易に下したくはない。

 

おそらくであるが、はあちゅう氏は、自分が乗った「#metoo」という神輿の本質的な部分=「『ノリ』に閉じてきた口を開こう」が、まだ理解できていないのではないか、と思う。

そしてそれは、以前より(あくまでネット上で勝手に流れてくる)はあちゅう氏に感じていた軽薄さ、薄っぺらさの答えでもあるような気がするのだが…。何にでもいっちょ噛みするというのだろうか。それは「フットワークの軽さ」と言い換えることもできるのだが。

ただ、はあちゅう氏のことを軽薄だというのであれば、彼女の尻馬に乗ってツイートし、彼女からRTを頂戴するエピゴーネンたちは何なのだろう。彼女がペラい、吹けば飛ぶような軽薄さならば、彼ら彼女らはおよそ粒子レベルのそれである。

「ワナビー」はなぜダサいのか

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“一般男性”がめいっぱい背伸びして撮影したおしゃんなバー@目黒周辺



石原さとみ剛力彩芽と、大物女優のスキャンダルが相次いで話題になっている。

 

どちらの相手も、彼女らと同じ芸能人ではなかったため(とはいっても、“一般男性”と評するのは極めて難しいほどのVIP)、SNS界隈では「何食ったら剛力彩芽とお知り合いになれるんだ」「前世でどんな徳を積んだら石原さとみと旅行できるんだ」という阿鼻叫喚が巻き起こっている。

 

しかし、野暮なのを百も承知でいうと、「〇〇をしたら××と付き合える」というタラレ陥っている我々小市民の分際では、芸能界のトップスターと付き合うなんておそらく最初から無理だったのだろう。

 

何より、スケールが違いすぎるのだ。この記事を読んで愕然としたよ。

r25.jp

 

デカい。あんたデカすぎるよ、前澤さん。

 

こんな人がはたして、「剛力とデートしたいから〇〇しよう」なんて考えて行動するだろうか。そんなマインドセットで動いてたら、こんな4DXで迫ってくるようなスケール感は出ないはずだ。

 

おそらくであるが、彼には常にやりたいことがあるのだろう(鼻をほじるとかそういうのでなく、もっとめちゃくちゃでかいこと)。

夢を抱くことすら困難な時代、彼はやってみたい夢があふれ出てくる才能と、それをすぐにやる機動力を持ち合わせた。

 

夢に理由などない。登山家に例えるなら「そこに山があるから」。

その強大で苦難に満ちた行程で、ふと目に留まった、荒野に咲く美しい一凛の花。それこそが彼にとっての剛力彩芽だったのではないか。「君、きれいだね。俺についてこないかい?」、そう言って彼はその花を大事そうにリュックにはさむと、まだ先の方に米粒のようにしか見えない山頂付近を仰ぎ、また一歩苦難に立ち向かうのではないか(いや、ほぼ100%筆者の想像ですよこれは)。

 

言い方を変えれば「石原さとみを、剛力彩芽を目指して登ってくる登山家」に、彼女たちはおそらく振り向かない。むしろ、「私なんて気にも留めずにただただ大きな夢に向けて駆け上げっている」からこそ、彼女たちは彼らに振り向いたのではないか、と思うのである。

 

それと同じようなことが、「ワナビー」にも言える。

ぼくが属しているのがウェブメディア界隈だからなのか、最近、周辺の若者たちが「〇端慎太郎みたいになりたい」「〇あちゅうみたいになりたい」と言っているのをよく耳にする(不思議と「前澤さんみたいになりたい」という人はまだ出てこない。これから増えるのだろうか)。

 

もちろん、「ワナビー」は誰もが一度は通る道である。それ自体はしかたないことだ。

ぼく自身15年ぐらい前は「奥田民生みたいになりたいなあ」と思っていたら、そこから約10年後に『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール 』というマンガが出てきて、「俺以外にも思ってるやつっているんだ…」と呆然としたことはあるがそれはともかく、そうなるのは仕方がないことで、青春の一時期に罹患する季節性の病である。

 

奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール

奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール

 

では、なぜ「ワナビー」がダサい、俗物的だと思われるのだろう。

おそらくそれも、「石原、剛力と付き合うにはどうしたらいいか」と同じように「◯◯になりたいから××をする」という打算的な逆算の思考のためだ。 

 

本人たちと知り合いでないし聞いたこともないが、きっと田◯さんもは◯ちゅうさんも、いまの「田端◯太郎」、「はあ◯ゅう」となるまでには、さまざまな経験をしたはずである。楽しいことも楽しくないこともあっただろう。

しかし、それらは別に「今の田端慎◯郎」になりたかったから、「今のはあち◯う」になりたかったからしたわけではないだろう。 

結果論として「今」が形作られたのであって、彼らが「今のあのイケてる感じ」になったのはたまたまなはずだ。最初からそこまで予想できていたら、それこそラプラスの悪魔である。

 

ワナビー」がダサいのは、彼らの現在の上部だけーー例えば、転職するだけで話題になったり、ネットラジオでエロい話をしたりナンパ男にインタビューしたり、ちょいちょい舌禍で炎上して直火で炙られる程度はしてるけどなんとなく充実してる風景だけを見て、なりたいと思っているからだ。

それが「ワナビー」のダサさ、俗物性の所以だ。

 

ワナビー」が「◯◯みたいになりたい」と言って、有料サロンに入ったり、ロフトプラスワンのイベントを最前列にかじりつきで見たって、そこに◯◯になるためのヒントは、多分ない。ありそうに見えて、それをしたところで◯◯にはなれない。

なぜなら、たぶん「田端慎太◯」にとっても、「はあちゅ◯」にとっても、「今の姿」は「今まで」から線でつながっているそれもまた「プロセス」でしかないからだ。

 

そういう意味で、「ワナビー」がダサいのは、「◯◯みたいになりたい」と言ってるくせして、対象の◯◯について、本質的なことは何一つわかっていないということも一因なのかもしれない。

劇場からポップコーンを追い出せ! 映画鑑賞に最も適したお菓子は何か

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単刀直入に言うと、映画でポップコーンを食べられるのが大嫌いである。

昨日、『アイ、トーニャ』を観ていたときも、隣のカップルがボリボリボリボリやってる音が気になってむかっ腹がたってきた。

特に、マーゴット・ロビーが迫真の顔芸をしていたところでボリボリ始めたときは、さすがに横を見て、お前マジかと目をひん剥いてしまった。彼氏がウシジマくんみたいな風貌だったので黙っていたけれど。

また、混雑した劇場でのポップコーンはトラブルのもとだ。先日も上映前、ある客がほかの人の足をまたぎながら席にたどり着こうとしていた際、抱えていたポップコーンをこぼしてしまい、前列に座る人が頭からかぶる「ポップコーンの雨」を目撃した。

 

なにより、考えていると腹が立ってくるのは、

・お前ら普段そんなにポップコーンを食べないだろ、という点

・劇場側がすすんで売っている点(のわりに「上映中はお静かに」とかいっているこの矛盾!)

 である。

 

ただ、多くの映画館では飲食物の持ち込みを禁じた上、ポップコーンを売っているのである。

そういう点で、「普段ポップコーンを食べていないのに劇場では食べている」というより、「ポップコーンしか食べるものがないから仕方がない」というのが実情だろう。

つまり謎は、「なぜ、咀嚼音のするポップコーンを劇場サイドは売りたがるのか」という点に行き着く。

 

なぜ映画館でポップコーンを売っているのか

そんなことで、まずポップコーンがなぜ映画館で流通しているのかを調べてみた。

gigazine.net

karapaia.com

macaro-ni.jp

 

諸説あるようだが、結論から言うとそれらはどれも「ポップコーンじゃなきゃ絶対だめ」な理由ではなかった

さまざまな理由からたまたまポップコーンが選ばれ、なんとなくそれが続いているだけなのだ。

 であるならばなおさら、ポップコーンでなくていいではないか。

 

映画館からポップコーンを追い出すべく、ニュースターを選定する

というわけで、ポップコーンに代わる、映画鑑賞に最適なお菓子のニュースターを選ぼう。

ここまで書いてきた通り、「なにがなんでもポップコーンでなきゃダメ」な理由はないのである。

ならば、ポップコーンが映画館で流通している理由を列挙し、「それは、〇〇でもよくね?」と考えれば、代替物を選べるはずだ。

そして、それは「綿菓子」なのである。

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ウィキペディア「綿菓子」の項より引用

 

映画館でポップコーンが売られる理由、が綿菓子でもいい理由

ここでは、谷國大輔『映画に仕組まれたビジネスの見えざる手 なぜ映画館にはポップコーンが売られているのか』(スマートブックス)から「映画館でポップコーンが売られている理由」をピックアップしていき、「それ、綿菓子でもいいですよね?」ができるかをやっていこう。 

 

映画に仕組まれたビジネスの見えざる手 なぜ映画館にはポップコーンが売られているのか (スマートブックス)

(↑ポップコーン以外のビジネスの話もいっぱいあっておもしろかったよ)

 

理由1 音

映画館で気になるのは音だ。隣の人にお煎餅をバリバリと音を立てて食べられては、じっくり映画鑑賞できないというもの。でもその点、ポップコーンをかみ砕く音、お煎餅よりもがぜん小さい。

これを初めて読んだとき、谷國さんマジですかとズッコケそうになったが、ポップコーンは谷國さんの感覚では音が小さい部類に入るらしい。いや、大きいですって!

いうまでもなく、ポップコーンに比べれば綿菓子の咀嚼音なんて微々たるもの。いや、 あれで音をさせるほうが難しいはずだ。

 

理由2 掃除

映画上映の合間、次のお客さんが入場するまでの短い時間に、映画館内をササッと手際よく掃除する必要があるのだが、その点ポップコーンは都合がいい。座席に落ちてもべとつかないし、コロコロ転がるから掃除がしやすいのだ。

たしかにポップコーンは、食べ物の中でも掃除がしやすい部類に入るだろう。

しかし、この考え方には錯誤がある。

そもそもこぼれなければ掃除すらしなくていいのである。綿菓子にこぼす心配があるだろうか?

 

理由3 衛生面

ポップコーンはトウモロコシを高熱で加熱しポンと弾けさせた食べ物だから、食中毒の心配がない。 

なぜ、「高熱で加熱してポンと弾けさせた」ら「食中毒の心配がない」のか、そこの論理が若干曖昧であるが、それはともかく、これについてはポップコーンも綿菓子も大差ない気がする。

縁日で売られている食べ物の衛生面について危惧されることが多いが、幸い、綿菓子で食中毒という記事は出てこない。

また、綿菓子の賞味期限についても、未開封の市販のもので3か月程度もつとのことだ。

 

理由4 原価率

映画館にとってとても大事な理由なのだが、ポップコーンは原価が安いので儲けが非常に大きい。仮に原価が20円でそれを200円で売れば、それだけで180円も粗利がでる計算になる。それに、ポップコーン製造機は比較的安価でメンテナンスもしやすい。

映画館サイドにとって最大の関心事はこれだと思われる。

ポップコーンについては劇場によってサイズ、価格ともにまちまちだが、こちらのブログを参考にしよう。

ishiteru.com

 

このブログではユナイテッドシネマとイオンシネマの量から、原価を出している。これに従うと、どちらも原価率は17%前後。例えば、マクドナルドの原価率はおよそ90%前後」だというのだから、これはかなり優秀といえるだろう。

では、綿菓子はどうか。これについては驚異的なデータがある。

昨年8月の『水曜日のダウンタウン』(TBS系)において、「原価率の低い食べ物ランキング」なるものが発表されている。

news.walkerplus.com

何を隠そう綿菓子は、そのランキングで1位に輝いている。原価率は3%。17%というポップコーンですらはるかに凌ぐ、驚異の数値をたたき出しているのだ。

原価率で考えるならば、ポップコーンがよくて綿菓子がダメな理由はない。

ちなみに、2位のかき氷(12%)、3位のベビーカステラ(14%)なども劇場で売ってみたらいいかもしれない。

 

そのほか、とあるネット記事によると、「ポップコーンなら投げても問題がない」という理由もあったという。昔はつまらない映画だと客がスクリーンに物を投げていたらしい(なんて野蛮な…)。

この理由についても、綿菓子であっても問題ないのは言うまでもない。 

 

まとめ:綿菓子が最強! ただしネックは…。

ここまで書いてきた通り、綿菓子こそ、ポップコーン以上に映画鑑賞に適したお菓子である。

 

ただし、そんな綿菓子にもネックが一つだけある。塩味がないということである。

ポップコーンの魅力といえば、あの香ばしい塩バター風味である(ポップコーンそのものが嫌いなわけではない筆者)。少なくとも、縁日などでは塩味の綿菓子などみたことがない。

とおもって調べたところ、過去にはわれらがDPZがこれに挑戦している(自分の思いついたことはたいていすでに誰かが試してくれている。VIVA、ネット文化!)

portal.nifty.com

 

この記事に従うならば、塩味の綿菓子に可能性は感じられない。塩味がないというのは、綿菓子にとって結構大きなディスアドバンテージかもしれない。

ただし、そんなことは映画鑑賞にとって微々たること!そもそも、おめえら飯食いに来たわけじゃねえだろ。映画を観に来たんだろ。2時間ぐらい我慢してよ!

というわけで、TOHOシネマズその他の劇場関係者には、いますぐにでも綿菓子製造機を大量発注してもらいたいものである。

 

おまけ

最後に唐突な自慢を放り込んでおくと、うちにはポップコーンメーカーがある(結婚祝いで友達にもらった)。

 

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そろそろ油でギトギトになってきた愛機

だからなんだという話だが、とくに理由はない。本当に自慢したかっただけである。

 

イチローと辰吉 潔くない「引き際」について

44歳のイチローが、所属するシアトル・マリナーズの会長付特別補佐に就任したという。

今季の残り試合に出場しないが、引退はせず。チームに同行して練習を行い、同僚たちにアドバイスなどを行うという。この契約によって、日本のプロ野球界に復帰する可能性はなくなるとのことだ。

年齢が年齢なのだから、そろそろ引退発表なんかがあるのではないか、と少なからぬ野球ファンはドキドキしていたものだろう。そこにきてこの展開は、誰も予想しなかったのではないだろうか。

大前提として、イチローに対してファンの誰も何も言う筋合いはない。言う筋合いはないのだけれど、この契約の「宙ぶらりん」感はなんなのだろうとも思った。もっとスパッとした区切りをつけたほうがいいんじゃゃないだろうか、と。「野球の研究者でいたい」って、そんなの前から言ってたっけ…?

 

そんなモヤモヤを抱いていた連休中の朝、偶然にもNHK総合が再放送でドキュメンタリー番組「ノーナレ」が「辰吉家の常識 世間の非常識」を放送していた。ボクサーの辰吉丈一郎と年上の妻、るみさんの現在を特集した回だ。

 

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ドキュメンタリー映画ジョーのあした』公開館にて

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NHK公式HPより

「ノーナレ」はその名の通り、約25分、ナレーションなしで構成される実験的なドキュメンタリーだ。ナレーションで説明を補わない分、視聴者は被写体ともろに向き合うことになる。

番組では「夫婦漫才」を意識してか、2ショットのインタビュー時には二人の前にサンパチマイクが用意されていたが、そのとおり漫才のような掛け合いになるのだからすごい。辰吉とるみさんの年輪を感じさせるやりとり、ナチュラルボーンなボケ × ツッコミが効いた小気味よいやりとりは見ていて楽しい。

 

辰吉といえば、自身と同じくボクシングでプロデビューした次男が8勝を数える。今月17日で48歳で、年齢からいえばもう後進に道を譲るには十分すぎる頃合いだ。

でも辰吉はいまも「現役」だ。日本ボクシング協会からは危険だということからとっくの昔に引退勧告を受けているのだが、本人は引退をするつもりはない。もはや「勝手に現役だと言い張っている」レベルである。

8年間試合はなく(番組初回放送時)、収入はゼロ。貯金を取り崩しながら、彼は「現役」を続けている。次の試合のあてもない中で、4度目の戴冠を目指して日々トレーニングしているのだ。前回のタイでの試合では7回TKO負けを食らっている。

そういう意味では、イチローよりももっとずっと前から明確な「引退」を避け続けているのが辰吉なのだ。

 

印象的なのは、辰吉の「引退」について、るみさんはどう考えているのか語った場面だ。インタビュアーがその件について投げかけると、夫婦の顔色は多少曇った気がした。

るみさんは実際、何度か「辞めて」と泣いたこともあるという。辰吉はそのたびに「おまえに泣かれてまでやることはない。おまえの言うとおりにする」と素直に応じるというが、数分後、練習道具を詰め込んだカバンを持って家を出るのだという。

吉本新喜劇ならその場の人間総出でズッコケるところだが、るみさんもなぜか夫を「いってらっしゃ~い」と見送るということだ。「辞めて」と思う一方で、ボクシングに明け暮れる夫に「うれしくなったりしちゃう」自分もおり、何よりも「自分のしたいことをする姿を見るのが幸せ」なのだという。

 

終盤では、

辰吉「”辰吉”やっとったらおもしろいよ」

るみさん「おめえはな(笑)おめえはおもしれえだろうよ(笑)」

 

というやり取りもあった。

「辰吉をやる」=「再度戴冠を目指して現役を続ける浪速のジョーであり続ける」夫と、それを支え続ける妻。その口ぶりは呆れかえっていたものの、「支え続ける」ことがなによりも楽しそうに見えたのもまた事実なのだ。

結果として、辰吉が現役であると言い張っていることで迷惑している人がどれだけいるだろう。ほとんどいないはずだ。苦労をかけているとすれば、家族などごく少数の周囲の人間であって、おそらく彼らは辰吉の人間的な魅力に見出された人たちなのだ。るみさんは番組中、それを「宿命」と表現していた。 

 

それを考えると、あらためて思う。イチローの前代未聞の「引き際」についても、まるで問題ないのである。 妻と、そして球団が彼の在り方を全力で支援すると決めたのである。誰がそれをとやかくいえるだろうか。

「ださい」とか「潔くない」は、しょせんはその人の人生を引き受ける気のない外野の人間のこぼす「常識」である。

前人未到を打ち立て続けた男が、また一つ、前人未到を打ち立てる。ファンの予想の範疇に小さく収まるような引き際は作らない。それがイチローらしいといえばイチローらしいのではないだろうか。

トイレの張り紙と祖母の話

 今週、ほろ酔い気分で入ったトイレで用を足しているとき、目にこの張り紙が飛び込んで来た。

 

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「いつもきれいに使っていただ」いているかはわからないのに、トイレ利用者を勝手にありがたがっている。

これは本当にありがたがっているわけではなく、「だから今日もきれいに使ってくれるよな?あ?あ?」という圧力が言外に隠されていることは、言うまでもない。

 

ぼくがこの文言をみて人一倍嫌な気分になるのは、ある人から似たような構造の言葉を使ってよく叱られてきたからだ。

それは祖母だ。

髪型が金正日に似ていることから、「将軍様」と呼んでいた祖母。

悪さをすると、祖母はよく、「あんたが本当はいい子なのはわかっとる」という言い回しを使いながら叱りつけてきた。

「いつもきれいに使っていただ」いていると名指しされるトイレ利用者と同様、「本当はいい子」らしいぼくも、似た圧力をかけられていたのだ。

トイレの張り紙が嫌なのは、祖母の言葉と同じ嫌なタイプの圧力をかけてくるためだ。

 

それならば、「あんたが、そんなにいい子じゃないのはわかっとる。けど、ちょっとは良心を持ってくれ」とか、「もうちょっといい子のふりぐらいしろ」ぐらいだったらよかった。

「本当は良い子なのはわかっている」は、「そんなに俺のことがわかってたまるか」という反発心と、「そんなに俺は良い子じゃないよ…」という後ろめたさを同時に味わわされる言葉なのだ。

 

だから、「本当はいい子なのはわかっている」は、ぼくが子どもを育てるときに使いたくない言葉の第一位である。今のところ子どもが生まれる予定はないけれど。

軽はずみに「本当はいい子」なんかを想定したくない。僕が味わったような気持ちを味あわせるだけだし、「そんなにわかっている父親のフリ」みたいなのは大嫌いだからだ。

 

 

そんな祖母がガンになった、と実家の母から連絡があった。

寝耳に水だった。だが、もう80代なんだからそんなことが起きてもおかしくない。起きてもおかしくないけど、いざ起きたら驚くのがこの手の話題なのかもしれない。

 

先週、祖母は手術を受けた。

 

トイレで張り紙を見た夜、祖母からLINEが来た。80代のくせにLINEを使いこなし、ぼくのTwitterを監視する油断ならない祖母である。

無事退院したらしい。

なんて返せばいいかわからず、「入院お疲れさまでした」と妙に他人行儀に返してしまった。

 

金正日は70歳で死んだ。祖母はもう10年近く長く生きている。

この先も思う存分長生きすればいいと思うよ。

『いぬやしき』、超大作ラッシュでやや空気だけどめっちゃいいぞ

木梨憲武佐藤健主演のSF映画いぬやしき』を観た。

 

www.youtube.com

iincho.hatenablog.com

原作1巻のレビューはこちら↑

 

原作マンガのときから、いい意味で実写化への色気を感じたのだけど、まさか犬屋敷、温水さんでも笹野さんでもなく、ノリさんで来るとは!

そのノリさんが非常によい。ときおりちょっとノリダー入ってるよ!って感じるときもあるけど、それがむしろイイ! 対峙するのが圧倒的にシリアスな佐藤ゆえに、バランスが取れている。

ノリさんと本郷奏多くんコンビのわちゃわちゃ感も好き。途中からまじで昭和の特撮ものみたいになってくるのがニンマリする。

それにしても、力を持った者が自分でも「うひょ~~~」と驚きながら空をかっ飛ばす姿ってなんであんなに気持ちいいんだろう。

 

佐藤演じる中二病の夢」=獅子神の存在感も、バッチバチに際立つ。「中二病」は「自分がカッコいいと思って酔ってる」のが滑稽なはずなんだけど、佐藤がやったら本当にカッコいいからずるいよ!

佐藤=獅子神のパートを丁寧に描いていくぶん、若干アンバランスがゆえに、やっぱりノリさんの濃い存在感は重要だ、とあらためてキャスティングに唸ってしまう。

また、「ネットの匿名野郎に悪口書かれたやつが一度は夢想する復讐」も再現されていて最高である。それでいて説教臭くないのがいい。

 

ブレない脚本も素晴らしい。

人知を超えた力を期せずしてもってしまった二人なのだけど、まったく逆方向に進んでいく。でも、二人は実はある面では似てるってことを、セリフにすることなくそれとなく観客に伝える脚本が、いい仕事をしている。

監督の佐藤伸介さんは、『アイアムアヒーロー』の人だ!と思い出す。あの映画もテーマからブレていなかった。

キャストが必要最低限なのもよかったのだろう。原作で物議をかもした「■根さんヘッドショット」描写も、ああいう再現の仕方はアリだと感じた。 

 

ぼくの評価がやけに高いのは、最終決戦の舞台が、西新宿、歌舞伎町エリアであるのも大きいと思われる。見知った新宿上空をノリさんと佐藤がドンパチやりながらかっ飛ばすわけですよ。アガりますよそりゃ。TOHOシネマズ新宿、ピカデリー、バルト9あたりで観るのがおすすめ。

 

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劇中に出てくるビル1

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劇中に出てくるビル2

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劇中に出てこないけどエモい風景

 

一点、ガチバトルまでちょっと時間がかかった気はするけれども。

 

ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル』『パシフィック・リム:アップライジング』 『レディ・プレイヤー1』、そして今週末には『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』も控え、超激戦になってるのだけど、邦画にも見逃せないのがあるぞ!といっておきたい(もちろん、この4作もみるけどね)。