いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【映画評】「リメンバー・ミー」、めちゃくちゃ怖い映画だった

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ディズニー・ピクサー最新作の「リメンバー・ミーは、ラテンアメリカの「死者の日」の風習を題材にしたファンタジー映画である。

靴職人の家系に生まれた少年ミゲルには、音楽に対する並々ならぬ情熱があった。

ところが、彼の家族には音楽に触るのも奏でるのも禁じた鉄の掟があった。

そんなミゲルは、自分の先祖が伝説的なミュージシャンであったことを知る。

さらに音楽への情熱が募ったミゲル。家族の目を盗み、死者の日のステージに立とうとするが、ひょんなきっかけで彼は死者の国に入ってしまう…。

 

ディズニーやピクサーということで当然フルCGなのだが、彼らの映画には毎回そのテクスチャーに驚かされる。

ラプンツェル」における髪の描写、「アナ雪」における氷やパウダースノーの描写は、物語と別の次元で「なんてリアルなんだ」と息を飲む

今作は特に「ばばあの顔」に注目してもらいたい。

 

それはいいとして。今回はストーリー、というよりその「設定」が衝撃的だ。個人的には怖さすら感じた。

ミゲルが迷い込んだ死者の世界は、1年に一度死者の日にだけは生者の世界に帰られる。

ところが、それができるのは「現世の人間に遺影を飾ってもらえている人」のみだ。

死者の国の関所のようなところで、遺影が飾ってもらえてないとわかると門前払いされてしまう。

 

現世でのお供え物は死者の財産になる。死者の国も格差社会なのだ。

おそらくジョン・レノンなどは未来永劫、向こうで裕福な暮らしができるのだろう。

 

それだけではない。遺影はおろか、誰からも現世で思い出してもらえなくなったとき、完全に忘れ去られたとき、その死者は「最後の死」を遂げる

死者の国で死ぬと、死者は完全に消え失せてしまうのだ。

 

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それ、めちゃくちゃ怖くね?

 

 この設定=死生観が楽しめるのは、親兄弟、友人知人に恵まれているか、あるいは、現世で人気者だった人のみである。

だから家族を大切にしろ、という話になるのだけれど、「手遅れ」の人間はどうすればいいのだろう

身寄りのない人は?

孤独死確定で最近はどんな孤独死キメるか考えるのが一周回って楽しくなってきたおっさんも、この映画を観たらクソを漏らして気絶するだろう。

それぐらい、おそろしいメッセージが込められている。

隣で見ていた外国人女性は終始ゲラゲラ笑ってうるさかったが、彼女にはフルハウスのような仲良し家族がいるのではないだろうか?だからあんなに楽しめるのだろう。

 

それでも、途中までは「言うて、ディズニー・ピクサーやぞ。どこかに救いが用意されてるだろ」と高をくくっていた。

例えば、家族や友達に恵まれなくても、素敵な作品や素敵なことをして現世で残る、という「救い」が考えられただろう。

しかし、本作にはそういうのは特にないから困る。

 

もちろん、天下のディズニー・ピクサー映画である。

ストーリーレベルではいつもどおりの穴の少ないものとなっているが、この設定だけがただただ残酷すぎてクラクラしてきた

こんな恐ろしいピクサー映画は初めてだ。

 

【映画評】殺された兵士はどうやって親元に戻る? 映画「テイキング・チャンス」はもっと観られるべき

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「お、ケビン・ベーコンが出てんじゃん。80分弱か、ちょうどいい時間だな」みたいな軽い気持ちで開いたAmazonプライムビデオでしたが、この映画を観るにはちょっと迂闊すぎました

本作は記事のタイトル通り、戦地で殺された兵士がどのようにして親元に帰っていくのかを克明に描いた作品。全編もの静かで言い争いらしい言い争いすら起きませんが、腹の底にズシーンとくる作品です。

「テイキング・チャンス」とはそのまんまの意味で、チャンス・フィリプスという兵士を送るから「チャンスを葬送する」というわけです。「テイク・ア・チャンス」というイディオムがありますが「イチかバチか」という意味なのであまり関係はありません。

 

「戦死者の追悼」の場面はこれまでにも映画でよく見ます。

制服組が家のインターホンを押し、出てきた遺族が手紙を見て泣き崩れるシーン。あるいは、星条旗がかけられた棺が埋葬されるシーンなどです。

本作が描くのはちょうどその間、兵士の遺体がどのように故郷に帰って行くかの部分と言えます。

 

イラク戦争の真っただ中の2004年、米海兵隊のマイケル・シュトローブル中佐は、同朋が戦地で死んでいく中、米国内で内勤にあたる自分に対してもやもやを抱えていた。

そんなとき、自分と同じコロラド州生まれのフィリップス一等兵の戦死を知る。見ず知らずの若者であり、高官という立場のシュトローブルだったが、意を決して遺体を故郷まで護衛する任務に就きます。

 

本作はドキュメンタリーではありませんが、チャンス一等兵は実在した人物ですし、彼が故郷までにたどった道程はかなり忠実に再現しているのではないか、と思われます。

シュトローブル中佐の目線から、観客は「遺体の護衛」という知られざる任務追体験する仕組みになっています。

 

本作を見ると、アメリカでは戦死した兵士がどれだけ厳粛に、どれだけ敬意をもって扱われているかが伝わってくる。

遺体が帰国し、まず最初に訪れるのは遺体安置センターです。

特に印象的だったのは、遺体を洗うシーン。一体の遺体につき何人ものスタッフが、ついた血や泥を丁寧に落としていきます。映画はその光景をまるでマッサージや愛撫のような優し気な作業として描きます。

それだけではない。遺族に返されることとなる兵士の愛用品、勲章や十字架、ドッグタグなどもきれいにあらわれます。

棺に収まる際に兵士が着ることになる正装も、一目にはほとんど触れない部分なのにセンター内で丁寧に裁縫されているようです。

 

 

ただ、戦死者に敬意が払われるのは、遺体が出棺するまでの国の施設の中だけではありません。

シュトローブル中佐は、フィリプスを護衛しながら降り立つ各地で、名もなき一等兵に対して、偶然通りかかった市民らから最大限の敬意を表されることを目のあたりにします。

戦争に慣れてしまっている、と言ったらアレですが、戦争がある国の国民はこういうものなのかなあ、と感心してしまいました。

イラク戦争の是非はともかくとして、「戦争をする国の国民」の態度として、こういうものであってほしいなと思えてきます。

そして、中佐とフィリプスの遺体は数日の旅の末、ついに親元に届く。

 

ここまでのプロセスを経て、観客は、1人の兵士の死がただの「数字」では到底回収しきれないことを、あらためて思い知ります。

一人の男が、前途がある若者が唐突に死を迎えることは、こんなにも重大なことなのだということです。

この映画は物語に乗せて訴えるのは、単純な反戦や、戦争への扇動ではありません

あくまで中立に「戦死するとはいったいどういうことなのか」を考えさせてくれます。

 

惜しむべきはこの映画、HBO制作によるテレビ映画ということのためか、あまり有名ではないのです。

それがメチャクチャもったいない! もっと見られてしかるべき映画なのに!

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【映画評】小さくなったって人生の辛みは変わらない!「ダウンサイズ」

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映画『ダウンサイズ』公式サイトより。

 

アレクサンダー・ペイン監督の最新作「ダウンサイズ」は、人間を十数センチ台に小さくする「ダウンサイジング」が可能になった未来を舞台にしたサイエンスフィクションだ。

北欧で「ダウンサイジング」が発明され、環境問題や食糧問題など、人類の課題がすべて解決すると期待された数年後。

ポール(マッド・デイモン)は同窓会で旧友と再会したのを切っ掛けに、「ダウンサイジング」することを決意する。

「ダウンサイジング」をすれば資産は今の数十倍になり、大豪邸に住みながら一生遊んで暮らすことができるという。

愛する妻はいるものの、決して裕福ではないポールだが、夫婦ふたりで「ダウンサイジング」することで理想の暮らしを手にすることができる、はずだったが…。

 

観る前は「アバウト・シュミット」「ネブラスカ 心をつなぐストーリー」など現代を舞台とした人間ドラマを得意とするペインの最新作がSF!?意外!と感じた。

SFといえば、先鋭的なビジュアルや設定で観客を魅了するのが常道だからだ。

ところが、実際に観てみると、本作をペインが撮ったことも「なるほど」と腑に落ちた。

 

ポールは土壇場になって怖気づいた妻に裏切られ、ひとりで小さくなってしまう。

ふたりで一緒に豊かに暮らす夢は早くも崩れ去ってしまうのだ(ダウンサイズをすると二度と元には戻れない)。

それだけではない。一人で住むには大きすぎる豪邸は引き払い、マンションに移り住んだポール。

ところが上の階の住人は毎夜のごとくパーティを開き、迷惑極まりない。

離婚したポールだが、新たなパートナー候補とも上手く進展しない。

「小さくなれば人生最高!」という触れ込みだったが、実際のところは全然そうではなかったのだ!

 

実はポールの体が小さくなったって、人生の悩みは昔のころと何も変わらず彼を苦しめるのだ。

そうした日常の悩みと並行し、富で溢れるとの触れ込みだった「ダウンサイズ」の世界にも、外の世界と同じく貧富の差が存在することもわかってくる。

 

ここに、「アバウト・シュミット」(妻に先立たれてしまう)、「ファミリー・ツリー」(妻の浮気が発覚してしまう)など、日常的な苦悩とその滑稽さを描いてきたペインが、このSF映画を撮った意味があるように思える。

 

後半になればなるほど、13㎝になった人だけしか出てこなくなりサイズの話はおざなりになる一方、ロードムービーの様相を呈し、ますますペインの映画っぽくなっていく。

そんな中でもクリストフ・ヴァルツの顔芸は逸品である。笑うしかない。

本作はテクノロジーの発展によって様変わりした未来を描いている。これは間違いない。

しかしその設定は「体裁」程度のもので、核となる部分は、人類が延々と苦労することとなっている「人生」という、やはりペインらしいといえばらしいものなのだ。

【映画評】戦争映画なのに主人公は壁に張り付いてしゃべりっぱなし「ザ・ウォール」

 

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ときはイラク戦争の末期、アメリカ軍のスナイパーのアイザックは、応援要請を受けて砂漠地帯にある石油パイプライン建設現場に同僚のマシューズと駆け付けた。

ところが、現場には複数の不自然な状態の死体が転がるのみ。

そのとき、風を切る音とともにマシューズはその場に倒れ、助けるために近寄ったアイザック自身も何者かに狙撃され膝を撃たれる。

辛くも避難したアイザックだが、相手はなおもどこかに息を潜め、彼を狙っている。

どうやら相手は凄腕のよう。

 

本作、その名も「ザ・ウォール」は、上映時間約90分のうち、主人公がほとんどのシーンで壁に張り付いているという世にも珍しい映画だ。

それだけではない。

戦争映画にありがちな激しい銃撃戦などはなく、ほとんどがダイアローグで進行する。

手負いのアイザックの命をかろうじて保証するのは、相手の死角となる崩れかけた古いれんがの壁一枚のみ

そこからひょっこり頭でも出そうものなら即自分の脳漿が飛び出すのが見られるような極限の状況で、アイザック自身を狙うスナイパーと、無線を通して会話劇を繰り広げる。

 

脚本を手がけたドレイン・ウォーレル氏は「公園のベンチでチェスをする2人の男性の会話にも似たところがある」と評したというが、まさに二人のやりとりは、片方にほぼ勝ち目のない将棋のハンデ戦のよう。

アイザックはさまざまな方法で相手の裏を描こうとするも、「一方的に見る側」「一方的に見られる側」という図式が作り出す敵の絶対的な優位性はなかなか揺るがない。

 

「見る側」「見られる側」といえば、西洋人が大好きな神と人間の関係だ。わかりやすいといえばわかりやすいが、アイザックが感極まって過去の罪を「告白」までするのはすぎだし、取ってつけた感がする。

ただ、その点を除けばスナイパー好きにはたまらない映画だ。ブラックなオチもいい。

とんねるず×ダウンタウン×爆笑問題 夢の共演が実現したのは「いいとも!」の保守性が一因?

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1日深夜の「ナインティナイン岡村隆史オールナイトニッポン」にゲスト出演したとんねるず石橋貴明が、リスナーからの質問に答える形で「笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号」について話していました。今さら説明するまでもないですが、「グランドフィナーレ」は約30年の歴史に幕を閉じるフジテレビ看板番組の名のもとに、それまでタブー視されていたダウンタウンとんねるず爆笑問題の共演が実現した伝説の生放送で、今もお笑い好きの間では語り草になっています。

オールナイトニッポン」では石橋が、ダウンタウンとの共演について、フジテレビサイドから「とんねるず爆笑問題は上がらないでくれ」と言われていたことを明かしました

もっともこの情報は既出で、フジテレビサイドは当初さんま、ダウンタウンウンナンで共演させ、とんねるず爆笑問題の登場は次の時間枠を予定していたということが、真偽は不明ながら各タレントが番組で話す後日談から浮かび上がっています。松本人志がMCを務める「ワイドナショー」においても、「いいとも!」最終回を担当した中嶋優一チーフプロデューサーが、ダウンタウンとんねるずの共演は想定外であったと認めています。

そうした中での今回のラジオ放送でしたが、ぼくの頭の中では、石橋の発言が先月の「みなさんのおかげでした」での彼の発言とリンクしました。

 

すでに3月末での終了が決定している同番組では、現在さまざまなスペシャル企画でその歴史を振り返っていますが、2月8日の「とんねるず大反省会」と題した回では、とんねるずがこれまでに共演者、スタッフらにしでかした様々な「悪行」が訴状に挙げられました。

その中で、若手に思い通りにネタを披露さえてくれない、というテーマで後輩芸人らにつるし上げられた際です。石橋はこう言いました。

そういうの(台本通り)が俺らは嫌なの!タレントはアドリブ力だと思うの!そのまんまでしょ、君らのやっていること。

周知のように、とんねるずの芸風はハプニング的で、台本、進行を守らないことがほぼ思想のように一貫しています。

そこでぼくは考えたのです。もしかして、「いいとも」最終回におけるとんねるずダウンタウンの共演が、あらかじめ番組側に用意されていたとしたら、彼らはそのブックにおとなしく乗っていただろうか、と。それはもしかしたらできなかったのではないでしょうか。なぜならそれは、常に予定調和をぶっ壊していくとんねるずのスタイルに反しているからです(※なお、爆笑問題については石橋が乱入をけしかけてきたことを太田光が自身のラジオ番組で語っており、とんねるずの乱入がなければ、彼ら単独での乱入もありえなかったといえます)。

逆にいうと、番組の側がすでにボケに回っているような番組で、とんねるずはあまり持ち味を発揮気しない可能性があります。例えばTBSの藤井組の番組などを想像してもらえればわかるかもしれません。

そう考えると、「いいとも!」という番組のベースにある保守性が逆説的に、あの伝説的な共演の下地になっていたのではないかと思えてしまうのでした。  

【映画評】「運命」はある日突然やってくる 「15時17分、パリ行き」

 

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公式tumblerより。

 

クリント・イーストウッド監督の最新作「15時17分、パリ行き」は、2015年にアムステルダム発パリ行きの列車の中で起きた無差別テロを題材にした一作です。「硫黄島の手紙」以降、特に実話ものが多くなったイーストウッドですが、ここ最近の「アメリカン・スナイパー」、「ハドソン川の奇跡」、「15時17分、パリ行き」を公開順に並べると、伝説的なスナイパー → 旅客機パイロット → 一般市民と、徐々に「普通の人度」が高まっていることが興味深い。

そして、今作で特筆すべきは、出演しているのが実際にテロから乗客を守った3人の若者本人たちだということです。これはイーストウッドが3人と話しているうちに思いついたアイデアのようで、彼ら以外にも列車に乗り合わせた乗客、さらにテロリストに撃たれた人も出演し、かくして世にも珍しい再現度の映画となったようです。あるサイトでは「出演:アンソニー・サドラー、アレク・スカラトス、スペンサー・ストーン」という記載のすぐ下の「原作」の項にも全く同じ3人の名前が並んでおり、奇妙な感覚にとらわれました。

 

映画の構造自体はいつものイーストウッド映画と同様に非常にシンプルです。ときおり断片的にテロのシーンがはさまれますが、基本的には3人の幼少期(もちろん子役が演じています)から時系列に生い立ちを追っていくスタイルをとります。

ただ、今回はそうした構成が、「3人がテロの起こる車両に"何か"によって引き寄せられるかのような感覚」を演出することに成功している。イーストウッド自身はインタビューにおいてその"何か"を「運命」であると解釈しています。あのとき軍隊に志願していなかったら、あのとき試験に落ちていなかったら、あのときバーで話しかけられなかったら……それ以外にも無数にしかけられた針の穴を通すような確率の「たられば」をすり抜け、3人はあの場に居合わせることになります。さらに、生き残るのが絶望的な状況に追い込まれてもなお、アホのような偶然によって守られたのは、もはや「運命」としか言いようがないところがあります。

本来山場となるテロのシーンまで観客は約80分待たされますが、いざそのシーンになると驚くほどあっさりしています。これはこれで、リアルを突き詰めた結果かもしれません。本当にテロなんかが起きたらBGMがかかったりスローモーションになったりすることはなく、それはあくまでも日常と地続きなのですから。

あまりに引き込まれてしまい、彼らが「本人」であることを忘れてしまうほど。クライマックスに差し込まれるとある映像において、我々はこれが現実にあったことなんだと連れ戻されます。

 

本作は「市民を題材にした市民が出演する市民のための映画」です。自分ももしかしたらいつか、期せずして「運命」に巻き込まれてしまい、それまでの全ての失敗や挫折が意味のあるものだったと悟るのかもしれない、そうした不思議な高揚感を抱かせてくれます。

何よりも、イーストウッドに映画化され、自ら出演できるなんて!映画好きにとってそんなご褒美はほかにありません。「あー、俺もイーストウッドの目にとまるような出来事に巻き込まれたい」と不謹慎ながらちょっぴり思ってしまうのでした。

 

【参考記事】

natalie.mu

news.yahoo.co.jp

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【書評】理想的なルームシェア像に隠されたホラーすぎる真相とは……吉田修一「パレード」が快作すぎる

ひょんなことから同居することになった四人の若者。大学生の良介、ニートの琴美、フリーターの未来に会社員の直樹。恋愛関係でないし、親友でもない4人は奇妙なバランスを取りながらルームシェアしている状態だったが、また一人若者が紛れ込んできた。一方その頃、近所で謎の連続婦女暴行事件が起こり始めていて……。

 

パレード (幻冬舎文庫)

パレード (幻冬舎文庫)

 

芥川賞作家吉田修一の『パレード』は、同じ2LDKの部屋で起こることを5人の異なる人物の視点から描き出す手法をとっている。この手法はのちに『悪人』でも使われ、同じ出来事を立場の違う複数の人の視点から描き、読者にとっての「悪人像」をぼかしていることに成功している。今にして思えばこの手法をもっとも効果的に、そして解説の川上弘美の表現を借りればもっとも「こわい」ものを描くことに成功しているのは、実はこの『パレード』の方だったかもしれない。

普段はあまり干渉しあわないが、いざという時は協力しあう--そんな若者が夢見がちな(都合のいい)めんどくさくないコミュニティーの理想像をこの本は描こうとしているように見える。少なくとも最後までは…。

最初、多くの読者は油断するだろう。この手法で描かれるのは、たぶんある視点人物だけが「知っていること」なのだ、と。その人だけの知っていた秘密が明かされ、我々読者につまらない日々の暮らしにちょっとした驚きを与えてくれるのだ、と。

だがそうではないのだ。事態はまったく逆で、この小説ではある人物だけが「知らなかったこと」こそが真相なのだ。ネタバレになるのでこれ以上はあまり語れないが、その真相がその視点人物に対して明かされたとき、世界は一気に不気味なものとなる。ある人物だけが知らなかったということは、周囲の人物が意図的に無視、あるいは黙殺していたことを意味する。

 

その黙殺そのものが川上いわく「こわい」ものの正体だ。この小説は「チャットみたい」なコミュニティーが反転したときに現れる、「付かず離れずの距離」「気軽さ」のもつ不気味さを描いた快作/怪作だ。